時間屋
7. 子の心親知らず (3/3)


「父は病院で亡くなりました。母やわたしや弟は父を看取ることができたんですが、祖母だけが……祖母だけが、間に合いませんでした。祖母はその後、父の後を追うように亡くなりました。とても穏やかな顔で」
 緑色のエプロンをした少女は、膝の上でこぶしを握りしめた。テーブルの上のココアにその顔が映る。彼女はその顔の幼さのわりに身長があった。
「わたしは、祖母に父を看取って欲しかったんです。祖母が父を愛していたのは、わたしにもわかったから……だから、理由を聞きたかったんです、あなたに」
 少女は白いテーブルクロスの上に畳まれた布を置いた。白いそれは、ところどころ黄ばんでいる。少女はそれをゆっくりと広げ、名刺サイズの厚紙を取り出す。
 真ん中に、縦に三文字。
「祖母にこの話を聞いたのは高校生の時です。そして、これを受け取りました。あなたは呼べば来る、そう祖母が教えてくれました」
「なるほど」
 何を納得したのかわからない口調で、少女の前に座る男は言う。
――理由もなにも」
 コーヒーの香りを漂わせるカップを置き、男は少女へにっこりと微笑んだ。
「おばあさんに頼まれたからですよ」
「いいえ、頼んではいなかった。あなたが、無理矢理祖母にそう思い込ませた。時間を売るように仕向けた。そうでしょ?」
「仕向けたなんてとんでもない。私はお客様の思いをくみ取って商売していますよ」
「商売だなんて。巧妙な詐欺ね」
「詐欺って」
「詐欺よ。本当は必要のなかった交渉をさせたんだから。もしあなたが祖母をそそのかしていなかったら、わたしは」
 なおも言おうとした少女に、スッと手を伸ばして見せる。
「声が大きいですよ。ここは喫茶店。静かにお茶を楽しむ場所です」
 微笑んだ男に、少女はふいっと顔を逸らした。
「……他に誰もいないのに」
 ずっと流れていた静かな音楽が聞こえてくるほどの静寂が、突如訪れる。この店は落ち着いた茶色の壁紙に、白いテーブルクロスがかかった丸いテーブルが並んでいる。静かすぎて落ち着きが逆になくなってしまいそうなほど、人気が乏しかった。そんな中、男はゆったりとカップの中の黒い飲み物を味わっている。
 黙り込んだ少女の向かいで、男はコーヒーを一口含んだ。
――良いですね、これ。あなたが淹れたんですか?」
「……今店内にいるの、バイトのわたしだけだし」
 だから二人きりでゆっくり話ができると思った、と少女はもごもごと続けた。
「……今の時間、お客さん全然来ないから」
「そうでしたか」
「……ここのオーナーは優しいよ」
 ふと、目を伏せる。
「……親に疎まれたわたしでも、本当の親ってこんなのかなって思えた」
「でもおばあさんはあなたを大切にしましたよ」
「祖母は父を誰よりも愛してた。孫のわたしからわかるくらいに。わたしは、そのおこぼれをもらっていただけ」
「いいえ」
「何がわかるの」
「おばあさんはあなたを愛していましたよ」
 男はさらりと言った。
「でなければ、あなたは今生きていないのですから」
「でも」
「信じてあげてくださいよ。――そういえば、裕子さんの間違いは、裕子さんが気付いたことの他に、自分の考えが息子達にも通用すると思い込んでいたこともでしたね。子供が救いになるかは、その人の心理的状況や性格などによるもの。裕子さんはそれには気付かなかった」
 男の言葉に、少女は大きくため息をついてみせる。
「そのおかげでわたしは生きている。――あなたはあえて教えなかったんでしょ? 祖母に私を救わせるために」
「どうでしょうね」
「……詐欺師」
「でも裕子さんは、息子さん夫婦が子供の存在に救われるどころか、その子を疎んでいることに後々気付いたはずです」
「そして後悔した」
「いいえ」
 男は、そっとテーブルの上の黄ばんだ紙に手を伸ばした。それを持ち、少女に差し出す。
「もし、おばあさんがあなたを生かしたことを後悔したのなら、これは捨てられていたと思いますよ」
 嫌な思い出を持つ物を、人は目のつかない場所に置いたり、捨てたりしたがる。対して、良い思い出を持つ物は、目のつく場所に置いたり、大切に保管したりする。
「こうやって、丁寧に布に包んでとっておいていたんです。あなたを救ったことを後悔していたとは思えません」
 かすれて読みづらくなった三文字に、少女は顔を歪ませる。
「でも」
「あなたはおばあさんの愛情に気付いているでしょう? そして、あなたもあばあさんを大切に思った」
「……おばあちゃんのことは、親よりも大好きだった。それは本当。でも」
 言葉を句切り、少女は唇を噛んだ。
「……だから、おばあちゃんの時間を犠牲にしてまで、生きていたくなかった」
 静かな音楽に負けるかと思うほど小さな自分の声に、言葉に、少女はさらに唇を噛みしめる。
 親に疎まれて苦しむくらいなら、祖母に父の死に際を看取って欲しかった。
 お前が生き延びたせいで生活が苦しかったんだと、何度言われたことか。何度祖母がお金を得たことを罵られている様子を見せられたことか。
 一方で、経済が復活してきた頃に生まれた弟は、これでもかと愛されていて。
 一言で言えば、辛かった。
「……生きていたく、なかった……」
 祖母には言えなかった本当の思い。誰にも言えなかった本当の気持ち。言った瞬間、安らぐこの心はしかし、まだ叶わぬ願いに暗く沈んでいる。
 ごめんなさい、おばあちゃん、あなたの犠牲は、無駄だったの。誰もあなたの思いを有難く思っていないの。ごめんなさい、ごめんなさい、けど、だからといって「生きていてよかった」と思い直すことはできないの。
 あのね、おばあちゃん、今の、わたしの本当の願いは――
「それは困りますねえ」
 からりとした声だった。少女の心の呟きをぶち破る、底抜けに明るい声。それは静かな喫茶店の中で堂々と発せられた。
「……え」
 予期しない明るい声の調子に思わず目を瞬かせる。思考が停止した少女に、男はコーヒーが入っていたカップを見せた。
「あなたにお会いできなければ、こんなに美味しいコーヒーを味わうこともできませんから。あ、おかわりお願いしますね」
 男が微笑む。その黒い光彩の奥、闇のような瞳は、静かで、あたたかい。
「私はあなたにお会いできたこと、嬉しく思いますよ、ほさん」
 少女は黒い眼差しを受け止め、見返し、そしてその穏やかな黒い光が体に染み渡っていくのを感じ――その感覚を振り切るように彼から目を逸らす。
「……馬鹿」
 その震える声に、時間屋は目を細めて微笑んだ。


解説

2014年09月30日作成
 奈ほさんと時間屋さんの話。元依頼人とたまに会ってる、という設定は当初から考えていたんですが時間屋さんが贔屓をしない人なので特定の人と会っているというのはちょっと違うかなと思い…なかなか生かせませんでした。奈ほさんはいわば解説要員です。時間屋さん目線ではわかり得ない事情を説明するための登場人物ですね。時間屋さんも口数が多い人ではないので…
 ここで「時間屋さんって何歳なの?」という疑問が出てくると思いますが、時間屋さんは”時間屋”です。時間を売り買いする概念です。概念に年齢はありません。信じる人がいればその分存在し続けますし、信じる人がいなくなれば消えます。神様に近いかもしれませんが、彼には時間をお金で取引する以外の役割はありません。”時間屋”ですのでね。彼はそういう人なのです。
 だからこそ、彼のビジュアルが明記されていません。それなりに説明はありますが、一人称なので主観的なものばかりです。きっと、これを読んでくださっている方々全員が違う顔立ち背丈声音の時間屋さんを想像していると思います。それこそが概念たる時間屋さんだと思っています。個人的には「時間屋」は自信作ですし表紙を想像したりドラマ化似合いそうだなとか思うんですけど、一話一話違う方にやってもらえるのでないとビジュアルがつく作品形態にはしたくないですね。声もしかり、俳優もしかり、イラストもしかり。小説という表現方法を選んだからには、読み手一人一人の想像力を潰したくはないのです。なのでお好きな時間屋さんを想像してください。それが、あなたにとっての時間屋さんなのです。


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei