短編集
2. TwitterSS 5編 (1/1)
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【光、ふたつ】
「そんなこと言うなよ」と君は泣いてしまった。慌てて謝るけれど泣き虫な君は止まらない。触れようとした手は闇に溶けて形にならなかった。生物も建物も闇の中で黒く佇むこの世界で、君だけが白い。その異質さを誰もが疎んだ。けど。「君は僕の光だ」だからまた、ひとりぼっちだった僕と遊んで欲しい。
解説
2021年12月02日作成
Twitter企画「月々の星々」という140字ssコンテストに参加した作品。お題は「光」。
ひと月ごとに一文字のお題が出されて、一人五作まで投稿できるというものでした。公式Twitterはこちら。
頑張ってみたけどまあ難しいことこの上ない。昔は140字よく書いていたのになあ。
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【希望を入れる】
昔々、とある女が神から授かった箱を開け、中に入っていた災いを世に解き放った。
「けど、箱には残っていたものがあったんだ」
父はそう語る。私は首を傾げた。
「それが、『希望』?」
「そうだ。だから今、私はこうして希望を抱えていられているんだよ」
父はその穏やかな気性を体現するかのように穏やかに微笑み、膝の上の私を抱きすくめた。
――その父の腕は今や筋張り、棺の中で花に埋もれている。
「おじいちゃん、これで寂しくないね」
娘が背伸びをして棺の中へ花を置く。綺麗な花が一つ、箱の中の父を彩る。
「お花がいっぱい!」
そうだね、と私は言い、娘を抱き上げて棺の中を見下ろす。
たくさんの花に包まれた父は微笑んでいるように見えた。
解説
2021年12月04日作成
月一で発表されるお題から300字ssを投稿するTwitter企画「Twitter300字ss」様への参加作品。公式Twitterはこちら。
十二月のお題は「箱」。パンドラの箱と、箱の中に花を入れる描写が思いついたのでこうなりました。花=希望を表現するのが難しかった。棺の中でもお花があるから寂しくないね、の意を込めていたんですが引用リツイートで「希望が二つもあっておじいさんは幸せですね」的なことを言っていただけて「そうです!!!!!ね!!!!」と思いました。子=希望という気持ちが受け継がれている、という意味を込めた孫の登場だったんですがおじいさんにとっては子だけでなく孫も希望ですね。気付きをありがとうございます。
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【君自身が光だものね】
人は闇でできているから、目を細めてまで光を見たがるのだという。「人にとって光は生涯希求すべきものなのさ。そして僕はもう光を求める必要がない、だからこうなったというわけ」目を閉じたまま君は笑う。視力を失ったというのにその笑顔は以前と変わりない。「なるほどね」と私は君へと目を細めた。
解説
2021年12月12日作成
Twitter企画「月々の星々」二作目。お題は「光」。
結局上のとこれの二作品しか投稿できなかった。なかなか難しい…いやもう難しいって言葉しか出てこない。
このお話はタイトルと合わせて意味がわかる的な感じです。なのでちょっと卑怯かもしれない…140字コンテストでやることじゃねえな。
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【神に祈る】
神社巡りが好きだった。数ヶ月に一度京都に行っては徒歩であちらこちらを訪れた。けれど何を願う気もなかった。合格も結婚も健康も未来も、他者に願うほどのものではなかった。
なら、と私は求めた。
私一人ではできないことを。神様だからできることを。
けれどいつも、何事もなく本殿との往復を終えてしまう。戻ってきてしまう。鳥居の外に、この世に、アスファルトの上に。願っても願っても、どこの神社も私の願いを叶えてはくれなかった。
――ああ、駄目なんだ。
以降、私は神社へと赴くたび、静かに手を合わせている。
「この地とこの地の人達に良いことがありますように」
曖昧で、薄い、私の祈り。
これならば神様は叶えてくれるだろうか。
解説
2022年01月31日作成
月一で発表されるお題から300字ssを投稿するTwitter企画「Twitter300字ss」様への参加作品。一月のお題は「祈」でした。
「こんなに優しい人だから神様は連れて行ってくれなかったのかも。幸せになってくれますように」的な感想をいただいてしまって、嬉しいやら幸せやら。
というのも実はこれ、私の話だったりします。お話作る気力ない時は大抵エッセイっぽくなる。
京都に神社やお寺を巡りに行くのが好きな時期があって、でも神様達に願うことって何もなくて、というのも神様って祈られても困るだろうなと思っているからです。「受験に合格できますように」とか「結婚できますように」とか、そんなの自分の実力と運次第。他人に祈ったところで何にもならない。それに、私には他人に頼むほどの良い未来を描けませんでした。無病息災とかどうでも良くて、むしろ早くお陀仏したかったので。でも人間は簡単には死ねない。きっと私は長生きをして、大切な人を作って、悲しい思いで死ぬことになる。それよりだったら「死に別れしたくない人」が増える前に死にたかった。じゃあこれを神様に願えば良いか、と。自力ではどうにもできないから本当に「神頼み」です。
でも神様はこの手のやつは叶えてくれないんですよねー。いくつかの神社やお寺で「離れられない誰かに会う前に苦しまずに死ねますように」って祈ってたんですが、伏見稲荷神社で山の麓でそれを願った後本殿に向かって山を登っていたら、いつの間にか道を逸れて住宅地に出ていました。ちょうど夕方で人がどんどん降りてくる中で、夕方の伏見稲荷神社で「あちら側」に行きそうになった話を聞いていたので期待して登っていたんですが…怒らせてしまったな、と直感して麓の社に戻って謝りました。あの時の伏見稲荷神社がある山、まじで怖かった。
それ以来、自分の何を願う気もないのは変わらずなのでとりあえず他人の幸せを願っておいてます。そんな話なので気を遣っていただいてしまって申し訳ないやら嬉しいやら。
ちなみに結局「死に別れしたくない人」と出会ってしまって未来への不安で月の半分は泣きそうになっているので、何で連れて行ってくれなかったんや…とは今でも思いますね。まあこんな奴連れて行ってもつまらんからだと思いますが。
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【時計】
空を見るよりも先に、私達はそれを探します。ある時は壁に、ある時は手首に、ある時は電子機器に、三百六十度一方向に回り続ける二つの針を――もしくは針の先が指し示す数字、それを直接画面に表示したものを――私達はことあるごとに探し、見つめるのです。
今何時?
あと何分?
私達は私達に時間を指し示すそれらを「時計」と呼びます。時を計るもの、と呼びます。至極真っ当な名称です。これ以上なくふさわしい名称です。
では、彼らが針の動きを止めたのなら。
電池切れ、あるいは故障で時を表示しなくなったとしたら。
彼らは何と呼ばれるのでしょう?
「時計止まってるね」
「この時計、古いからなあ」
動かぬ針、正しくない時間。
それでも――彼らは「時計」なのです。
時を計らずとも、彼らは常に「時を計るもの」なのです。
だから私は、この時計が好きなのです。数年前から全く変わりない、時を計らなくなったこの電池切れの時計が好きなのです。
なにせこれは、いつまでも必ず「時計」であり続けるのですから。いつ見ても、どこに置いても、これは常に「時計」なのですから。
だから私はどうしてか酷く安心するのです。
私はことあるごとにこの時計を眺めます。止まったままの時計を長いこと眺めます。
時を計らずとも「時計」でいられるこの存在が、私にはどうにも心地よくてならないのです。
解説
2022年02月26日作成
元々時計が苦手で、一人暮らしを始めた頃は室内に時計をわざと置いていなかったんですが、遊びに来た母に見事に文句を言われ後日時計が二つほど送られてきました。ちょうどその前日に自分でも「見せかけでも置いておくか」と時計を購入していたので一気に室内の時計が三つになって困ったことがあります。
で、引っ越しを一度した今はというと、時計はいくつかあるんですが寝室にあるやつは針が止まったままです。地震対策で棚に紐で固定してあるから電池の入れ替えが面倒なのよね。でも動かない時計は嫌いじゃないなあと思い至ってこれを書きました。
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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei