短編集
11. 私達が消えたのなら (1/1)
彼は消えたいと言った。
「消えたいんだ。跡形もなく、ここに俺がいたという痕跡すらなく、綺麗さっぱりと全部なかったことにしたいんだ」
それはよく聞く願望。どうしようもない焦燥と絶望と逃避が生み出す、非現実的で実現不可能な「助けて」という言葉。知っている。だけど私はそれを知った上で、彼が望む反応のどれをもしない。
「奇遇だね」
私は彼へと満面の笑みを返した。
「私もなんだ」
慰めを期待していたのか、彼はぽかんとこちらを見つめてくる。
「……え?」
「私もね、消えてしまいたい。ぱあって爆発四散したい。花火みたいに……あ、でも人間が爆発したら赤い花火しか咲かないのかな? 発光もしないし」
「いや、それは」
「冗談だよ。――じゃあ、行こうか」
私は彼の手を取って、そのまま掴んで歩き出す。抵抗の一つもなく彼がついてきたのは突然のことだったからなのか、それとも抵抗という概念すら忘れてしまったからなのか、それとも。
「え、っと、あの」
どこに、と語尾まで言い切れないほどに戸惑いを含んだ声へと、私は笑って答えた。
「決まってるよ」
その手を握る。私のものより少し大きくて骨張ったその手を、握る。まるで帰り道がわからなくなった幼馴染みを家へと案内するかのよう。とても大きな迷子だけれど、なんてこっそり思いながら、私は彼へと笑いかけた。
「私達が消えてなくなるための場所へ。――さあ、願いを叶えに行こう!」
建物を出てから、私達はあちこちを見て回った。商業用ビルの一階にあるカフェにも行って、五階にある映画館にも行って、近くの本屋さんにも顔を出して、服屋の並びを散歩して。駅まで歩いて電車に乗って、隣街の洋風レストランでご飯を食べて、バスで海辺の水族館に行って帰りはタクシー。いろんな場所へ行った。いろんなことをした。その全てを、彼は「訳がわからない」とばかりの困った顔のまま受け入れていた。
「ねえ、あの……どういうこと?」
手を繋ぎながら歩くこと数時間後、そろそろ夕方と呼ぶべき時間になるだろうかという頃になって初めて、彼はそう言った。ちょうど歩道橋の真ん中で、たくさんの車が足の下を走り過ぎていく様子が眺められる場所だった。良い場所だな、なんて私は思う。愛の告白にはうってつけ。都合が悪ければ聞こえなかったふり、言わなかったふりができる騒々しい場所なんだもの。そう思うだけで口にはしない。
「消えてなくなるってさ」
私は足を止めて振り返って、繋いでいた手を離した。ちゃんと向き合いたかったからだ。
「難しいと思わない?」
「……思う、けど、でも、その方が」
「じゃあ逆に考えれば良いんだよ。発想の逆転ってやつ。例えば、こうして念願の『猫には猫の手しか貸し出せない』の新刊を手に入れたわけだけど、私はこの新刊を気にせずにはいられない」
先程買った本が入った紙袋を、手渡すかのように彼へと突き出す。
「じゃあ私にとって下着はどうかな?」
「したっ……!」
「ブラジャーもパンツも、毎日身に付けてる。むしろない方が気になっちゃう。ずっとそこにあるのに、全然気にならなくなるし、そこにあるということを忘れちゃう」
私の話に、彼は顔を赤らめた。ああ、何だか懐かしい。まるで小学生の男女みたいじゃないか。相手のちょっとしたところに異性を感じて、気付いてはいけない何かに気付いてしまったかのように、けれどその自覚はなしに慌てふためいてしまう。
「私達は、もう消えない。綺麗さっぱりなくなることはできない。なら、その逆になれば良いんだよ。ずっとそこにあり続ければ良い。そこにあるのが当たり前になれば良い。そうしたら、世界は私達のことを気にしなくなって、そこに私達がいることを忘れてしまうんだから」
私の下着のようにね。
そう付け加えれば、彼は理知的になりかけていた表情を再び紅潮させた。まるで中学生、ころころと表情が変わって全然飽きない。
「じゃあ行こうか! 世界に私達を見せつけよう、そして私達がここにいるということを忘れさせよう!」
そう言って、そして私は手を差し出した。手を掴んで引っ張らなくても良いとわかっていた。当然だ。私は彼のことを誰よりも知っている。
こうして待っていれば、君は必ず。
「……参ったなあ」
困り顔のまま笑って、その苦笑を隠すことなくそのまま私の手を掴み返して、そして。
「じゃあ、行こうか」
そうやって優しい声で私を促してくれるのだ。
夕焼け、世界が炎色の薄布を被って炎上ごっこをしている中、私達は近くの店で夕食を食べることにした。
「どうする? 鉄板焼き、パスタ、焼肉、ラーメン、あと……」
「二人で焼肉は元が取れないからなあ」
「またそうやってお金を気にするぅ」
頬を大きく膨らませて不満を示せば、彼はきょとんとした顔で私を見下ろしてきた。
「……また?」
「そこのお二人さん」
彼が何かを言おうとした矢先、背後から声をかけられる。居酒屋のコース料理をでかでかと書いた看板を手にした、客引きの男性だった。にこにこと私達に笑いかけてくるその様子はいわゆる陽キャそのものだ。
「どうです? お店に迷ってるなら」
「ああいや、私達お酒はちょっと」
「ご飯だけでも出せますよ。せっかくのデートにちょうど良い個部屋も準備できますし」
デート。
その言葉に固まったのは私じゃなかった。でも私と話していた男性はそのことに気付かなかった。
「お二人さん、お似合いですよ。見ててわかりますもん」
男性が言う。彼が私から手を離そうとする。それを無理矢理、再度その手を掴んでグッと握り込んだ。
「そうですよ」
私は言う。彼の手を掴んで、彼と手を繋いで、固くなった彼へと聞こえるように言う。
「当然です」
私の強気の発言に男性はからりと笑った。そして「じゃあ、また機会があったら」とあっさりと私達から離れていく。私達にその気がないと悟ったのだろう。早速他の通行人に声をかけている辺り、やはり相入れない種族としか思えない。
「……あの」
彼が呟く。居心地が悪そうに、その体を捻る。
「……俺」
「私も消えたかった」
何を言わせるよりも早く、口に出す。
「君が……事故に遭って、ずっと眠ったままで、私は何もできないまま待つことしかできなくて、そうしたら君は……何も、覚えていなくて」
消えてしまいたかった。全てなかったことにして、彼との出会いも思い出も全て幻にしてしまいたかった。
二人揃って迷子になった幼い日々も。
歩道橋の上での告白も。
食べ放題は元が取れないから二人では行きたくないという言葉も。
彼の手の大きさも、硬さも、何もかも。
全部、消せたのなら。
「だからね」
私は彼を見上げた。見上げて、そして、満面の笑みを向けた。
「消しに行こう! 私達の全部、今までの全部、全部全部消して、そうして」
私達のことを忘れてまっさらになったこの世界で。
「もう一度……初めから、やっていこうよ」
ね、と手を差し出す。だって知っているから。こうして待っていれば、君は、必ず。
「……参ったなあ」
困り顔のまま笑って、その苦笑を隠すことなくそのまま私の手を掴み返して、そして。
「じゃあ、行こうか」
そうやって優しい声で私を促してくれる。
知っている。覚えている。何をしてもこの記憶は消えやしない。
だけど。
だから。
――君ともう一度、初めから、全部やり直せたのなら。
そのためなら、私はこの世界から私達を消してみせるよ。
「うん」
頷く。手を握り返す。大きな手。骨張っていて、厚くて、壊さないようにと私の手を握り返してくれる手。好きだ。好きなんだ。何度消えたとしても、世界が私達を本当に忘れ去ったとしても、私だけはこれを決して忘れない。
だから、大丈夫。
さあ、明日はどこに行こうか。
解説
2021年02月27日作成
私達が消えたのなら
今度こそ、最後の時まで一緒にいたいよ。
ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【けいさんには「彼は消えたいと言った」で始まり、「お似合いですね」がどこかに入って、「明日はどこに行こうか」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題で。
消えたいと言ったのが他者で「明日はどこに行こうか」と言ってあげるということは「彼」を消す方向の話なんだろうということでこうなりました。消えてしまいたいと願うことは多いけれど、実際そんなことは不可能で、じゃあどうしようかとなった時に思い出したのがドーナツの穴や「0」という数字でしたね。ないという存在、なにもないという記号。そこから「そこにあるのが当たり前になれば世界は私達を見失うんじゃないだろうか」という思考に落ち着きました。…ちょっと哲学っぽい?
「私」が大胆な発言をするのはそういう性格だからです。じゃないと「当たり前になってしまえば世界は私達を認識しなくなる」なんて思いついても実行しないんじゃないかと思って。本当は「彼」が記憶を失ったことは明記しないつもりだったんですが、わかりやすさと字数を考えて書いてしまいました。実力不足! まあしょうがない。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei