短編集
17. ひとりぼっちの片想い (1/1)


「香に好きだって言えてたら、私きっとこんなところで泣いてなかったんだ」
 そう言って美佳はまたハンカチで目元を拭う。袖で拭わなくなったのは良かったけれど、そんなにぐいぐいと擦ってしまったらせっかくのメイクが取れてしまうし、その綺麗なハンカチも黒くなってしまうじゃないの。そう思ったけれど口には出さなかった。今の彼女に何を言ったって何倍もの涙と嗚咽が返ってくるだけだ、わかっている。彼女が泣く時はいつもそうなのだ。
 小学生の時によく遊んだ小さな公園、雨に汚れた木製のベンチに二人揃って腰掛ける夜。さっきまでいた居酒屋よりも断然、今の方が寒い。それもそうか、夜風が吹いているのだもの。
 私達を凍えさせるように、私達の間に溜まる温かい気配を吹き消すように。
「私ね、ずっと好きだったの。でも怖くて言えなかった。友達じゃなくなる方が嫌だった。だって香とはずっと友達で、いつも一緒に遊んで、小学校も六年間同じクラスで、中学も高校も同じで、ほんと、腐れ縁で、運命で、だから偶然だなんて思いたくなくて、何があってもずっとそばにいられて仲良しでいられるって、そう思いたくて」
 時折喉に溜まった涙を吐き出すように、美佳は嗚咽に声を上擦らせる。その度に声が波打って彼女の綺麗な声音に水泡を混ぜる。静かな水面に泥団子を投げ入れたみたいな声だ。美佳には似合わない、歪んだ悲しみの響き。
 美佳は大切な友人だ。それを、こんなに苦しめているなんて。許せない。そんなことは口に出さず、私はただ「そうだね」なんていう軽くて中身のないスナック菓子のような相槌を打つ。それで彼女の気持ちが晴れれば良いと、その軽さと同じくらいの心地で思う。
「さよならしたくなかったの……!」
 そして差し出した先からサクッと握り潰される、私のスナック菓子。
「香とさよならしたくなくて、好きって言えなかった。でも好きだった。でも言えなかった。だって好きって言って嫌われたら、私どうしようもなくなっちゃう。消えてしまいたい日もあるよ、何回も、何回も、今も。いっそ今すぐ消えてしまいたい。恥ずかしいんじゃなくて、消えてしまった腐れ縁っていう運命と一緒に消えてしまいたくなるの。それが嫌で、避けたの。そうしたら」
 ぐ、と美佳がハンカチを顔に押さえつけて背を屈める。その震える背中を、ただ見下ろす。見下ろすことしかできない。私には、その背を撫でて彼女を慰める資格はない。
「……私、本当のこと誰にも言えなくなってて」
「結婚おめでとう、美佳」
 改めて言う。普通なら歓喜の意味合いを持つその言葉を、丁寧に、言い聞かせるように、彼女へと言う。
「おめでとう。……おめでとう」
「……ねえ、香」
「何」
「他の人と付き合ってるとね、いつも香のこと思い出すよ。香ならこの時どうしてくれるかなって、香なら何て言ってくれるのかなって」
「うん」
「でもそこにいるのは香じゃないの。……嫌いじゃないよ、だから結婚できる。でも、でもさ、考えちゃうよ」
 顔を伏せたまま、美佳は呟く。ハンカチでくぐもった声で、呟く。
「私に勇気があったら、初恋の女友達と結婚したいっていろんな人に言えたのかなって」
 私と同じ思いを。
「言うの、難しいよ」
 美佳が笑う。諦めたように、小さく、笑う。
「だってずっと隠してたもん。何年も、何十年も」
「二十年くらいね」
「だって私達が子供だった頃はこんなの、いじめられるし馬鹿にされるし親に怒られるし、言ったって良いことないって予感してた。香が男じゃないからって、ただそれだけで」
「だから私達、ずっと友達のまんま、ほぼ毎日一緒に遊んだだけだった」
「ずっと片思いのまま、他の人と付き合って、そのことを香に報告したりしてさ」
「そうしたら、美佳が結婚することになって」
「嫌いじゃないよ。むしろ好きだし、すごく良い人。でも香だったらなって思っちゃう。性別がどうこうじゃなくて、香だから香が良いなって思っちゃう」
 あーあ、と美佳はハンカチの中に顔を埋めたまま揺れる大声で言った。
「私に香へ告白する勇気があったらなあ」
 違うよ、美佳。
 心の中で私は返す。
 違う、美佳の勇気がないんじゃない。私も勇気がなかったんだ。たまたま好きだと自覚した人生初めての相手が幼馴染みの女の子だったなんて、その初恋を今も引きずってるなんて、美佳にも、誰にも言えないんだ。男の人に負けないくらい頑張って美佳を経済的にも体力的にも精神的にも支えるだなんて、言えないから。世間からの関心の目から美佳を完全に守れるなんて、私は私に誓えないから。
 だって私は、あまりにも。
 自分が女であることにばかり、嫌悪感を抱いている。
 きっと君のことなんて考えてあげられない。自分の異常性の世話に精一杯で、美佳まで気にかけてあげられない。
 だから、これは悪くない結末なんだ。
「……世間を知る前だったら、言えたかもね」
 私は空を見上げる。星があるはずの夜空は、近くの街頭に照らされてただの黒い天井になっている。
「それこそ小学生の頃に。子供で、『好き』に種類があることを知らなくて、人間は誰のことを好きになっても良いんだって根拠もなく信じてたあの頃なら……」
「……うん、言えたかも、私、今日じゃないずっと昔なら、香に、ちゃんと」
 でも、もう言えない。
 私達は大人になってしまった。本音を隠せる大人になってしまった。
 告白のタイミングを永遠に失った、大人になってしまった。
「あーあ」
 私は笑う。空へ、俯く美佳を横に空へ、笑う。
 一人で。
「私達……せっかく世間が変わってきてるのに、新しい価値観に便乗することもできないつまんない大人になっちゃったね」


解説

2021年03月19日作成

 ひとりぼっちの片想い
 私達に名前をつけなくて良い。これはただの片想い、それで十分。

 ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【炯さんには「君に好きだと言えたら」で始まり、「消えてしまいたい日もあるよ」がどこかに入って、「つまらない大人になってしまったね」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題で。
 Twitterに投稿した画像ではタイトルが「ひとりぼっちの両片想い」になってました。いや、ただのミスなんですけどね。でも香さんの方の思いも表現した良い仕掛けになった気がする。そうこれは片想いではなく「両」片想い。両方が片想いなのです。時代の流れも手伝って口に出せるようになった人もいるかもしれないけど、諦め方が板についてしまって告白できないままになってしまった人もきっといるよね。
 あとこのお話には個人的な思いもいろいろ詰め込んでしまいました。誰かを好きになるっていう現象に名前をいちいちつけて区分するのって無粋で失礼だなあって常日頃思っています。これはボーイズラブだとかこれがガールズラブだとか、これは主人公の体が男だからニュートラルラブ(ノーマルラブ)だとか心は女だがらガールズだとか、そもそもヒロインは性自認が女で女性を好きになれて男性も抵抗ないなら普通の女性だとか普通じゃないだとか、ものくそどうでも良い。二人は恋をした、それが叶うことはなかった。それだけのお話です。そういう風に読んで欲しいなと思うので、特にGLだとかそういう表記はしていません。すまんね、私には区分をする価値がわからんから区分できんのだ。したくもないし。
 実は前作品の「僕が死んだ日」と同じ冒頭文を引き当てていました。後で気付いたけど。冒頭が同じでもお話はいろいろな形になるね。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei