短編集
19. 残雪の春 (1/1)
消えたい、という何度目かの言葉に毛繕いをやめて顔を上げました。見上げた先で、太陽の光を受けた雪が氷の粒のようにキラキラと輝いていました。
「消えたいんだよ。そりゃもう、義務としてね」
彼はまた言います。
「聞くところによると、よそでは桜という花が咲いていて、春という季節になっているらしいじゃないか。もう僕の出番ではないということだよ」
そう言って小さな小さな彼は雪の上に腰掛けて大きな大きなため息をつくのです。泥を含んで薄汚れた雪は固く平たく、冬の始めに降り積もったまま今まで溶けずにいたのでした。彼が腰掛けた痕跡すら残さないその雪は、嘴でつつけばサクサクと音を立てるほどです。
「季節外れというやつだよ」
彼は呆れた様子で続けます。
「春というのはね、雪が溶けることを言うのさ。雪が溶けない春はあり得ない。春とは気温ではなく四月でもなく、雪という冬の象徴が消えた後という意味だ。けど、僕がいる限りこの場所には春は訪れない。僕は冬の象徴だからね」
とんとん、と彼の小さな足が雪を叩きます。ぽろぽろ、と雪の欠片が路上に落ちていきます。その様子をそばで見つめて、しばらくそうして、そしてそっと嘴を開きました。
「……そんなことないよ。春の訪れは、雪のあるなしだけじゃないよ。花もだし、虫とか、動物とか……渡り鳥とか」
「でも彼らは雪が溶けた後に世の中を華やかにしてくれるものだろう? 僕とは違う。僕の後に続くものだ」
彼は何度目かの「消えたい」を呟きました。それを聞いて、少し考えて、「そっか」と小さな声で返して、そして翼を広げました。
「じゃあ、僕が雪溶け代わりの春になるよ」
雪が残る山肌に沿うように、燕が飛んでいます。春の訪れを告げるように、冬の終わりを告げるように、鋭い声で鳴いています。
その声に、人々は春を知るのです。花達も虫達も動物達も、春を知るのです。
そこに雪が残っていても。
冬の残りが白く佇んでいても。
もう、春なのだと知るのです。
――だから。
まだ、消えなくて良い。
消えないまま、そこにとどまっていてほしい。
この数日間の再会を少しでも長く楽しませてほしい。
燕が鳴きます。甲高く、甲高く、喉から叫ぶように春を告げる声を張り上げます。それは仲間への合図ではありません。歓喜の声でもありません。
もう春なのだと、あらゆる命達に急かすように訴えているのです。
解説
2021年03月27日作成
残雪の春
まだ消えなくて良い。まだ、消えなくて良い。
ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【明さんには「彼は消えたいと言った」で始まり、「知らないふりが上手くなる」がどこかに入って、「どうか気付かないで」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題…だったんですが冒頭だけお借りした後他の要素を拾わないまままとまってしまったので冒頭も診断結果と変えました。
ちょうど山の上の旅館に泊まった日に書いたので、雪のお話です。まだ一メートルくらい路肩に雪がありました。この日は各地で桜が見えたんだけどね。ツイッターもいろんな方の桜の写真がたくさん上げられてました。結局今年は桜見なかったな。
春が来るということはつまり雪が溶けてなくなるということで、つまり雪が溶けないと春が来ないというわけで。さよならをしないと巡らない季節、そのお話をつばめの子に託しました。つばめが鳴くと春の証、なら雪が残っていてもそこはもう春ということになりましょう。あなたが消えずとも春は来る、春の証はたくさんあるのですから。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei