短編集
22. 檸檬 (1/1)
守れない約束があった。友人の外出に付き合うという、どうということのない約束だ。彼は本屋が好きで、しかしそれは本を読むのが好きというわけではなく、何時間もそこに留まっては棚に並ぶ本の背幅を測るようにジイと眺め続けるのであった。いわば奇妙な男だ。
とはいえ大切な友人に変わりなく、私はイソイソと学舎の前の下り坂を降りていた。今から追いかければ会えるだろうか、と足を急がせる。彼の好む本屋というのはただ一つで、それも温泉街前の商店の一つのような小さな古本屋なのであった。日に焼けて茶けた本の何が良いのかはわからないものの、彼には何か惹かれるものがあるらしく、けれどそれを彼が語ることはなかった。マア、それでも私達の交友には何ら影響はなかったのだが。
坂を降りてしばらく、私はようやくその店へと辿り着いた。両開きの硝子戸は完全に開ききり、晴れた軒下に晒すように高台の籠が置かれ、安売りの本がその中に置かれている。極めて本を傷めやすい様相であるが店長はおろか客がそれを口出しすることはない。そこに焦りに似た呆れを覚えつつ、果たして私も何も言わぬまま籠の中の本を一瞥するのであった。今日も学舎帰りの子供が遊んだのであろうか、少々汚れのある本は籠の中で平積みされ、高々と山を形作っている。
と、本屋らしからぬ匂いがした。鼻の奥を縫い針でつつくような、開いたばかりの朝顔の花の中に顔を入れ込ませるような、少しばかりの痛みとこそばゆさを一点に当て付ける爽やかな香りである。
檸檬だ、と私は気付いた。檸檬の香りがする。けれどもなぜ本屋からそのような瑞々しい香りがするのであろうか。見渡し、そして私はようやくそれに気がついた。先程一瞥した、軒先の籠の中、それに詰め込まれた古本、その積木のように高々と積み重ねられた上に本ではないものが乗っていたのであった。
檸檬である。くすんだ茶色を掻き消すような目に焼き付く太陽の輝き、それを吸い取り飲み込み身に纏ったかのような色彩、坂道をゴロリと側転するであろう角のない紡錘形。それが、本ばかりの籠の中、子供が試行錯誤して大小の本を重ねたのであろう山の上、まるで頂に立つ山の神の如くトオンと置かれていたのであった。
暫し見入って、それから私は声を上げて笑った。茶けた紙束の上の黄色い果物はどうにも不釣り合いで、そして籠を少しでも揺らしたのならコロンと落ちてしまいかねない、その不安定さが危うい。少しも手を加えられようもない。屏風に描かれたかの如く、絵画に描かれたかの如く、我が我よと言わんばかりに堂々と静止している。
これはまた、大層な悪戯だ。誰もこの籠に触れられぬではないか。このような悪戯をする輩なぞ一人しか思いつかぬ。彼はどうやら、一つの繊細な爆弾を設置した後にこの場を去ってしまったらしい。さぞ得意げな顔をしていたことだろう。
ははは、と私は笑った。笑って、そして檸檬に触れぬまま店を後にすることにした。目蓋の裏に焼き付いた黄色が眩しい。カラカラと目を焼き脳を焼き、私に笑うという動作のみを繰り返させる。とんだ爆弾もあったものだ。
くるりと踵を返して私は坂を降り始めた。さて、高笑いの後は犯人探しの番である。帽子を被り、煙管を咥え、ホオホオホオンと頷きながら虫眼鏡で路面を見つめてみせようか。君が爆弾魔だというのなら私は探偵だ。さて、勝負といこうではないか。そう、君が実は爆弾魔であったというのならば、私は実は探偵であったのだ。私にも秘密くらいあるのだよ、ワトスン君。
解説
2021年04月09日作成
檸檬
今思えばくだらない、箸を転がすような戯れであった。
ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【けいさんには「守れない約束があった」で始まり、「檸檬の香りがした」がどこかに入って、「私にも秘密くらいある」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題から。
「君想ふ」に続く古書シリーズです。まあ、檸檬といえばこうですよね! といわんばかりの作品です。梶井基次郎の作品は「檸檬」と「櫻の樹の下には」しか読んだことがないんですが、とても素敵な発想をされる方だと思います。檸檬の色味を爆弾に見立てるとか、桜があんなに綺麗なのはその木の根元にやばいものが埋まっているからに違いないっていう発想とか、常人にはできません。芸術的感性というんですかね。文学的、とは少し違う、絵画的センスな気がします。あとは綺麗なものに下卑た生々しいものをぶつけるような辺り共感がありますね。
一応梶井先生の「檸檬」を踏まえてはいますが、内容としては顔を合わせていない友人とのお遊びに興じる学生の若々しい子供心と友情を主にしています。「箸を転がすような戯れ」って言葉は気に入ってますね。きっと再会した後には二人して腹を抱えて笑っていることでしょう。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei