短編集
23. 雨、英単語、四拍子 (1/1)
雨が降っていた。ピンと張ったナイロン布の上へと落ちてくる水滴が、パトパトという音を無限に立てる。軽くて、どこか滑稽さのある、間抜けた。この柔らかな化学繊維がビニール製だったのならもう少しまともな音になっていただろうか。そんなことをぼんやりと思う。
「ごめんね」
雨音の中で君が言う。隣に並んだ傘の下、使い込まれて張りの失われた折り畳み傘からまとまった水がバチャと落ちる。
「突然こんな話をして」
「別に」
大したことじゃない。バス停でバスを待っているだけの時間、そこに君が傘の下の顔を俯かせながら来て、そして何ともなしに君の事情を聞かせてもらっただけ。
「雨降ってて良かった」
震え声で君は言う。大方雨音で何もかも誤魔化せるからそう思ったのだろうけど、鼻をすすり上げる音は雨音に紛れるような綺麗なものじゃない。
「雨降っててもわかるもんはわかるけど」
「うるさいな、気付かない振りしててよ」
「それじゃあ話しかけもしなかったな」
言い返して、片手に閉じていた単語帳を再度開く。手帳サイズのそれは少し分厚くて、栞代わりに挟んでいた左手の親指に赤い痕がついてしまっていた。少し痛い。
英単語に目を滑らせる。耳から聞こえてくるポップミュージックに英単語がリズミカルに跳ねる、アクセントは拍子、文節は間奏。口ずさみそうになる。けれど中身のない音楽は、バシャ、と一握りの水が足元に落ちる音でたちまちバックミュージックへと落ち着いてしまった。君が傘の傾きを変えたらしい、傘のくぼみに溜まっていた雨水が一度に地面へと落とされた音だった。
「ごめん」
僕の中では既に終わっていた話題が再び繰り返される。少し考えて、この繰り返しの意味を考えて、そういえばバスがまだ来ていないことに思い至って、さっきまでのやり取りよりも解決に近いやり取りを思いついて、さらに少し考えた。
「別に」
今度は単語帳を閉じずに答える。
「全ての出会いには意味があるらしい」
「何、突然」
「バスがなかなか来ないのも、バス停で僕達が鉢合わせしたのも、雨が降ってるのも、全部意味があるってことなんじゃないの」
「わけわかんない」
「僕も」
「自分で言っておいて、何?」
「なんとなく、だけれど」
言おうとした言葉を呑む。君は僕の沈黙に何も言わず、待つ。
「つまりさ」
耳元から陽気なトランペットが高音を立ててくる。雨水の音と重なる。とん、トトん、ぱぱッパ、ぱとぱと。
「今がチャンスってことでしょ。君、バスの中でぎゃんぎゃん泣くつもり?」
耳元の音楽は絶えない。脳内で再び英単語が踊り出す。その外側では傘の上に雨が落ちて、傘の縁から雨が落ちて、君の口から嗚咽が落ちて、君の手元に雨が落ちる。
とンと、トトとん、ぱラッぱバシゃん、ぱとぱとパパパ、とントとン。ポップミュージックと英単語の四拍子。そこに君の声がドラムのように混じって、陽気な歌詞がその上からあっという間に掻き消していく。ヘイ、ボーイ、ゥワァツアーユードゥーイング。
隣でまた、傘からコップ一杯の水が落ちる。軋んだ水道みたいな音と一緒に地面に衝突して、いくつもの滴になって飛び散る。音楽は止まない。君の汚い嗚咽も止まない。別に、それはどうでも良い。僕はバスを待っていただけで君のためにここに立っていたわけじゃないし、この音楽も英単語も傘も雨も、君を隠して慰めるためにあるわけじゃない。この世界にとっても、僕にとっても、君はそんなに大仰な存在じゃない。でもそんなこと、君は十分わかっているだろう。自分のために世界が動くなんて都合の良いことは起こらないと、だから自力でどうにかするしかないのだと、神も運もありはしないのだと、君は言うのだから。
あれはそんな君のための嘘。息を止めて泣くのを我慢していた君への、たまたま居合わせた僕からの嘘だ。
解説
2021年04月12日作成
雨、英単語、四拍子
バスの中で泣かれるよりはマシだったからね。
ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【炯さんには「雨が降っていた」で始まり、「全ての出会いには意味があるらしい」がどこかに入って、「それはあなたのための嘘」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題から。
慰めるお話です。恋愛色を薄めて優しい性格がにじみ出るようにしました。「全ての出会いには意味があるらしい、だから今ここで泣きそうな君が僕に出会ったのも意味があるんだろう」みたいなのが思いついて、こうなりました。泣かないで、とはよく聞く言葉ですが、私はその言葉が苦手です。泣かせろよ! 迷惑だから我慢しろ、って感じが、泣いてしまうほどに脆くなった心にぐっさり来ます。「泣いて良いよ」は好きな言葉です。
あと、このお話は珍しく音を表現していますね。ちゃんと四拍子になるようにしたので(たぶん)、声に出して読んでみると面白いかもしれない。Prologueさんに投稿したら公式アカウントにツイートされてたくさんの方に読んでいただけました。視覚情報の情景描写が多い私の作品にしては珍しい部類です。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei