短編集
25. 月光 (1/1)
彼女はもうすぐ嫁ぐらしい。そんな話を聞いたのは彼女と会わなくなってから五年が経った頃だった。彼女とは幼い頃からの友人で、同じ学校に通い、同じ部活をし、同じ大学へと進んだ腐れ縁だ。けれどさすがに就職先は同じにはならなくて、最初の頃は時間を作って顔を合わせて互いの近況を教え合ったりしたものの、互いの仕事が段々と忙しくなってきてからはまともに連絡も取らなくなった。一度時間を置いてしまうとその手の連絡はしにくくなるもので、僕は何度か彼女へのメッセージを送信しようとしたけれど結局そのたびに指を止めてしまったし、彼女の家の前を通るたびに足を止めてはそれ以上何をすることもできないでいた。
年齢的にもおかしくない頃合いだから、その知らせを聞いても驚きはしたものの耳を疑いはしなかった。きっと仕事先かその他の場所でか、良い人と出会ったのだろう。けれど少しだけ、少しだけ寂しくて、というのも学生時代に家族と過ごすよりも長い時間を共有していた僕には直接教えてくれなかったという事実がどうにも心から離れなかったのだ。
だから会いに行くことにした。彼女の元へ、彼女の結婚前夜に。
彼女は実家で家族との最後の時間を過ごしていた。そのことは彼女の結婚話と共に聞いていた。そして僕は、学生時代に何度か彼女の家へ遊びに行ったことがある。道には迷わなかった。
もう、迷わなかった。
何度も思った。そろそろ連絡してみようかと。それともいっそ直接会いに行ってしまおうかと。けれどただの学生時代の友人にそんなことをされて、執着じみていると怯えられたら――彼女に悪いかもしれない、彼女はさほど僕との再会を求めていないかもしれない、そんな風に思って結局何もしてこなかった。
けれど今はもう迷わない。迷えない。今回が最後だ、明日になれば、彼女の元に僕が訪れるのはそれこそ迷惑になる。僕は僕のために、彼女の心など完全に無視して心を決めなくてはいけなかった。
「久しぶり」
彼女の家へ行って彼女を目の前にした時、案外自然にその一言は口からこぼれてきた。笑みも浮かべようとする前に顔に表れてくれた。そうして改めて、気付いた。
僕は、ずっと、彼女に会いたかったのだ。
ちょうど庭先に出ていた彼女は驚いた様子のまま、目を見開き、口を軽く開け、瞬きすら忘れたようにこちらを見つめたまま佇んでいた。その顔が泣きそうなものに変わる前に僕は言った。
「聞いたよ、結婚するんだってね」
あまり長いことここにいれば、彼女の家族や彼女の未来の夫が彼女を心配してしまう。だから、すぐに本題に入れるようにと言葉を紡いだ。
「びっくりしたよ。でも、良かった。君にはそういう未来が似合ってると思ってたから」
「……うそつき」
眉を歪めて彼女はようやく呟いた。
「そんなこと、少しも、思ってない、くせに」
「失礼だな。思ってるよ。心の底から、君を祝福してる」
「じゃあ何で今まで会いに来てくれなかったの?」
「迷惑になるかと思って」
「そんなことない」
ゆっくりと彼女は首を横に振った。暴れそうになる感情を体の中に押し込めるかのような緩慢な動きだった。
「待ってたんだよ、ずっと。……コウ君は、花みたいな人だよね」
「花?」
「いつの間にかそばにいて、だんだんと存在感が増していって、私を喜ばせるような花を咲かせて、その後……すぐに枯れちゃった、花。そんなことならもっと早く、会っておけば良かったって、何度も、何度も、思って」
彼女の声に、頬に、雫が落ちる。
「どうして……連絡しなかったのかな、私。コウ君と、たくさん、話したいこと、あったのに」
「ごめんな」
「そうだよ、コウ君も、悪い。全然連絡してくれなくなって……もう一度、会いたかったのに」
「会いに来ただろ?」
「遅いよ」
「ごめんて。こっちも悩んだんだよ」
「遅い」
「ごめんってば。……奈々」
名前を呼ぶ。彼女が顔を上げる。
記憶にあるものより大人びた、苦労を少し学んだ女性の顔が月明かりに照る。それへと目元を緩めてしまったのは――嬉しかったからだ。
「ありがとう」
二度と会えないと思っていた彼女に、こうして、会えた。
「君に会えて本当に良かった」
「私も」
彼女の手が涙を拭う。月光にきらめく瞳が彼女らしい強い光を放つ。
「私も、会えて良かった。コウ君がいたから生きてこれた」
「大袈裟だな」
「本当だもん。一人じゃないってことがどんなに大きなことか、よく理解したから。だから……コウ君に会いに行けなかった。ひとりぼっちだって認めたくなかったから」
だからこそ、悩んだのだ。会わない方が良いのだろうかと。そうして、今日に至るまで、一度も会えなかった。
でも、今日は会えた。
今日だけは会えた。
それだけで十分だ。
「さよなら、奈々」
月の光が彼女を照らす。彼女の頬を、その雫の痕を、照らす。
「向こう側で待ってるから、旦那さんとゆっくりおいで」
馬鹿、と彼女が叫んだ。馬鹿、そっちになんて行ってやらないんだから。私はやっと、コウ君じゃない人を好きになれたんだから。もっと恋愛楽しんで、人生楽しんで、そうしたら会いに行ってやらなくもないけど。そんな言葉が聞こえてくる。
「そっか」
なら、それで良い。
それが、良い。
彼女には、そんな未来が似合ってる。
「じゃあね」
愛しい人、会えなかった人。やっと会えた君。
「また、いつか」
ここではないどこかで、こうしてまた会いたい。
その時が来るのを、いつまでも、いつまでも――待っている。
庭先で突然泣き叫んだ女性の元へと彼女の母親が駆け寄った。
「コウ君が、コウ君が」
女性が顔を伏せてしゃがみ込み、繰り返す。
「コウ君が……いたの……!」
「長谷川さんの息子さん……? そういえば今日、長谷川さんとお会いしたから奈々の結婚をお伝えしたけど」
そうか、そうなのね。
母親の言葉に女性は叫びのような泣き声を返すばかりだ。その背をさすり、そうして母親は顔を上げた。
月光。
丸い月が、上空にある。庭先を覗き込むように、泣き崩れる女性を見つめるように、その弱く清く柔らかな輝きを向けてきている。
それはまるで優しい眼差しのように。
彼女を見守る幼馴染みのように。
「あの子と……やっと会えたのね、奈々。良かったね」
慰めのような言葉に女性はさらに声を上げる。吐き出すような嗚咽が夜の空へと溶けていく。
それを、月は変わらない明るさで見守っていた。
解説
2021年04月24日作成
月光
君の未来に幸多からんことを。
ツイッター診断メーカー「あなたの咲き言葉と散り言葉と枯れ言葉」から【あけるが花のように生きたとしたら咲き言葉は「もう迷わない」、散り言葉は「ありがとうを君に」、枯れ言葉(あなたの代りに残る言葉)は「月光」です。】というお題から。
いつもの診断ではなく、他のを使ってみました。小説を書く用のではなくキャラメイクとかそういう系のなのでちょっと新鮮。
他のお話と同じように一人称ですがセリフが主体ぎみです。その文体だとこういう風になるよ。涙を流すお別れも良いけど、お互いこれが最後だとわかって交わすさよならも良い。最後だとわかっているからこそ伝えられる思いってありますよね。ちなみに「幸多からんことを」は結婚式とかの祝辞でよく使われる言葉だそうですよ。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei