短編集
26. 赤い実、弾けた (1/1)


 全てを失った後に、私はそれに気付いた。真っ赤な実だ。とても赤い、赤い、小さな、そこにあるとも気付けないほど小さな実だ。
 それだけは手のひらからこぼれ落ちなかったのだ。近くで鳴り響くサイレンに、野次馬のざわめき、それから緊迫しつつもその動きに躊躇いのない救急隊員の冷静な発声。顔はまだ熱くて、全身もまだ熱くて、隣にたたずむ赤い車両のホースの先に飛び込んで私も水を浴びたいな、なんて思うほどに熱くて。ああ、これが自然が発する赤色というもの、熱というものなのね、なんて思いながら私は、壁を失い玄関を失い柱ばかりが残った我が家が家の中の物ものとも水をバシャバシャと浴びせられる様を眺めていた。
 全部燃えた。全部。ご飯も、勉強道具も、テレビも、スマホの充電器も、ベッドも、表彰状も、お気に入りの服も、お母さんとお揃いのネックレスも、お父さんが撮ってくれた旅行先の写真も、二人も。
 全部、燃えた。
 それでも目の前で消防隊員は仕事をしているし、隣の家の佐々木さんは犬を抱えてこちらの様子を見つめているし、近所のサツキちゃんはわあわあと泣いてお母さんに慰められていて。
 私一人を放置して、周囲は世界を紡いでいる。
 私だけが、全部を失って昨日までの世界を続けられなくなった。
 なのに。
「美鈴」
 理性的な大人の声ではない声が聞こえて来て、私はようやく首を回した。映画館で二時間以上の作品を見た後のように首も背中も凝り固まって痛かった。ただ、胸の中だけは痛くなかった。当然、全て燃え尽きたんだもの。痛みを感じる神経さえも焼き切れた。
 そう思っていた。
 街灯ではない明かりにゆらゆらと照らされたその人は、日中見つめ続けたその凛とした顔に焦りを浮かべていた。先輩、そんな顔もできるんだ。家が近くて小さい頃はよく遊んだし、高校生になってからは部活が一緒になって練習風景を見ていたりしたけれど、そんな凛々しくて呆然とした戸惑いの顔をしているのは見たことがない。
 そんなことを思って、そして、私は気付いた。
 残ってた。まだ、私の手の中にはそれが残ってた。家も家族も思い出も心も全部燃えたのに、その赤い実だけは残ってた。
 赤い実。
 国語の時間に読んだお話で、そんなのがあったんだ。赤い実のお話。胸の中でぱちんと弾ける、痛みを伴う赤い実、それを抱えた女の子の話。私と同じ痛みを抱えたその子は、その痛みの理由がよくわからないまま戸惑っていて。
 けれど私はそれが何なのかわかっていた。
 そして、今、先輩に名前を呼んでもらった瞬間、空っぽなはずだった胸の中に昨日までと同じその心地が生じたんだ。
 きゅうっと縮むような、心地が。
「大丈夫か」
 先輩が声をかけてくれて、けれど何も言えないまま胸を押さえた。昨日までと同じだ、これだけは、同じだ。こぼれ落ちてなかった。燃え尽きてなかった。失ってなかった。
 昨日までの私と同じ、昨日までの私と今の私が同じであるという証明。
 そうだ、私は生きている。生き延びたんだ。それを初めて知った気がした。
「せん、ぱ、」
 先輩のことを呼ぼうとして、できなかった。炎みたいに熱い液体が目元からあふれてきた。熱い、熱い。
 痛い。
「美鈴」
 先輩がそばにしゃがみ込んで背中を撫でてくれる。その手の動きに合わせて私の胸もきゅっと縮んで、痛んで、息苦しいほどに痛くて。
 だって、そうだ、私は。
「……美鈴が無事で、良かった」
 小さい頃から優しくてかっこよかった先輩に、何度も、いつまでも、今までもこの先も。
 ――私の胸の中の赤い実が、ぱちんと弾けた。


解説

2021年05月03日作成

 赤い実、弾けた
 この痛みが私を昨日と同じ私だと教えてくれた。

 ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【あけるさんには「全てを失った後に」で始まり、「手のひらから零れ落ちた」がどこかに入って、「ぱちんと弾けた」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題から。
 「赤い実 はじけた」ってお話があるんですけど知ってる方いらっしゃいます? 私それを国語の試験問題で五度ほど見かけていて、毎度引用される分が違うのに「タイトルなんだろこれ」って見てみたら「赤い実 はじけた」って書いてあったので覚えたんですよね。一回もまともに読んだことないんですけど。一度は読んでみたいです。この診断の「ぱちんと弾けた」がうまいこと引けたらこのお話を下敷きにしたのを書こうと思っていました。まああやふやな覚え方していたのでちょっと解釈違うかもしれないけど。
 調べてみたら光村図書の小学六年生の国語の教科書(上)に書き下ろされたお話らしいですね? そうだったのか…当時は「赤い実」が何なのか全然わからなかったんですけど、胸が苦しくなってはそれが解けるたびに「赤い実がパチンとはじけた」って一文を思います。なんとまあ的確でわかりやすくて曖昧で何にでも合う言葉。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei