短編集
30. 梅雨入り猫 (1/1)
先生はいつも背を丸めていらっしゃる。机に向かわれている時も、箸を持つ時も、ジャリンジャリンと音を立てながら黒電話のダイヤルを回される時も、水を飲みにお台所へ行かれる時も、先生はその広い背を丸めながら手先をのそのそと動かされる。私は肉球で薄汚れた床板をぽむぽむと叩きながらそれをぼんやりと眺め、ふにゃあ、と欠伸をするのだが、そうすると先生は良いものがそこにあると初めて気付いたかのように私の元へといそいそとやって来て腰を下ろして、丸めた背をさらに丸めて、私の背やら頭やらを撫でてくる。やあやあこれはよろしい頃合い、痛くもなく重くもなく、とてもよろしい。先生の大きな節立った手にむぬむぬと額を擦り付ける。すると先生は「おやおや、そちらから手に頭を擦り付けてくるとは甘えん坊なのだね」と笑う。
先生が笑うのはこの時のみである。普段は腑抜けた頬のまま力なく目蓋を薄らと開けて、机の上の紙束へと万年筆を走らせる。たまに字の書き込まれた紙をびりりと破いてぐしゃりと丸めて潰してそばの屑入れへと放り込む。私は少しの好奇心でその屑入れの中へと鼻先を突っ込む。むっと洋墨の臭いが体の中に入ってくる。臭い。けれど先生はそんな私の頭を撫でて「渋い顔をするのに毎度毎度顔を突っ込むのだね」と言い、そして万年筆の先に自らの鼻先を近付けて口元を緩ませる。変なお人だ。
夏が近付くと洋墨の臭いはさらにきつくなる。湿気の中にあの黒いねとりとした液体が馴染む。毛先がぺたりと張り付いてくるのであまり好かない時期だ。先生も同じようで、普段よりも広く服の胸元を緩ませて「暑いね」と扇子をゆるゆると動かす。いつもより先生の臭いが強くなるその風が、私は嫌いではない。とはいえやはりべたつきは嫌いなので冬のように首元へとよじ登り先生の頬へ鼻先を食い込ませるようなことはしないのだが。
けれど今日は異なるようだ。雨が窓辺から聞こえてくる、目に見えぬ細かな雫が薄暗い天井の板から降り注いでくる、そんな夏の初めであるが、先生は背を丸めて机に向かったまま万年筆の先を紙の上に置いていた。黒がじわりと升目の群れの中へ滲んでいく。文字ではない黒が記号でもない何かを描いている。
先生は扇子を持たなかった。万年筆を動かすこともなかった。懐に入れた左手が私を撫でてくることもなかった。先生はたまに机に向かいながらうたた寝をする。またか、と私はその脇腹へと頭を強く押し付ける。
先生、先生、早く書かねば編集の方が催促に来ますよ。先生お嫌でしょう、急かされるとやる気がなくなると毎度毎度仰っていたではありませんか。それとですね、そろそろお腹が空きました。昨日からずっとそこにいらっしゃるのですから、そろそろ腰も痛くおなりでしょう。運動ついでに私へのご飯をくださいな。先生、先生。
ほら先生、電話が鳴っております。先生のお嫌いなジリリンという音がひっきりなしに鳴っております。今日はそれでもお起きにならぬのですね、神経質な先生にしてはお珍しい。何なら私が受話器を取って差し上げましょうか。私、先生と過ごすようになってから随分と人間の暮らしというものを理解してきたのですよ。今ならきっと優秀な助手として活躍できましょう。猫の手も借りたい、ええ、私の猫の手でよろしければ、いくらでも。
だから先生、雨の音ばかり聞いていたら飽きてきたのです。そろそろ先生のお声が聞きたいのです。頭を、背を撫でてくださいませ。欠伸を幾度もしたというのに、先生は少しも私に気付かれない。いつもは毛並みがさらにぺったりとするので嫌々と逃げておりましたが、今の私はあなたの手つきが恋しゅうてなりませぬ。先生、先生、いつまでお眠りになっておいでなのですか、起きてくださりませ。
先生、先生。
先生?
解説
2021年05月21日作成
梅雨入り猫
今年は随分と長い雨降りの日々になりそうです、先生。
お題なし。あちこちで梅雨入りとのことだったので。
ちょっと寂しいお話になりました。有名な漫画家先生が次々と亡くなられた時期だったのもあります。猫の今年の梅雨は長い。
お題なしにしてはとても私好みになりました。はっきり言って好きですね。お気に入りです。お題つきだとお題元を気にしないといけないので、こうしてお題なしのを少しずつ増やして短編集を作れる程度にはなりたい。そろそろ長編も書けるようになりたいですしね。これからも練習がてら細々と書いていこうと思います。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei