短編集
33. くじら雲になった君 (1/1)
空の青は海の青が映り込んでいるからなのだそうです。
「だからね、空にも魚が泳ぐんだよ」
窓の傍ら、二人横に並んで、揃って遠くの空を見上げます。そうしてその指を真っ直ぐに上空へ向けて、彼は笑うのです。
「ほらご覧、白い魚がたくさん、群れになって一方向へと泳いでいく。あれはいわしだよ。いわし雲さ」
「つまり雲は魚なの?」
「魚だけじゃない、何にでもなれるのが雲ってものなんだよ。あれはすじ雲、水の流れそのもの。あれはわた雲、ふわふわとしているだろう? そういう海藻がある。あれは飛行機雲、タコが慌てて逃げた痕跡だ」
彼の細い指が次々と雲を指し示します。そのぶれない指先ときらめく眼差しが指している雲がどれなのかわからないまま、隣で頷きます。
「見上げればそこにいつも海があるんだ」
彼はやはり誰に向けるでもない笑顔のまま、窓枠に手をついて細い身を乗り出して、そうして青を見上げるのです。
「だから海が見えずとも構わない。僕の海はここにある、ここから見える。夜になると水面が星のように点々と光る。魚の鱗が光っているのだ。その中をぽっかりと丸くて明るい月のような照明が横断していく。イカ釣り漁船の往来は何度見ても飽きがない」
「空全体が暗い雲に覆われた時は?」
「バンドウイルカの群れが遊びに来ているんだよ。彼らは身体が灰色がかっているだろう? 水面をざわめかせ全てを不鮮明にしつつ、泳いで、跳ねて、そうして飛沫を雨のように振り撒くんだ。壮観だよ」
彼は楽しげに歯を見せて、けれどこちらを見遣ることなく空へと笑うのでした。
それが彼との毎日です。この天井の下、決して外には出られないまま、けれど彼は海という空をしきりに眺めては「あれはマンボウ」「あれはタツノオトシゴ」などと海の生き物を教えてくれるのでした。
「僕はね、いつか海を泳ぎたいんだ」
空の青を眼差しに映して、彼は言います。病院服のゆったりとした裾を尾びれのように風に揺らしながら、彼は言います。
「そうして魚達と泳ぐんだ。一方向に、群れて、真っ直ぐに、雲となって。大きな大きな体が良い。空を広く覆う、何よりも大きな雲になりたい。尾の一振りで海の端から端まで行けるような、それでいて果てのない海に絶望するような、そんな雲が良い」
「絶望?」
少し驚いて訊ねました。絶望というのは、この病棟そのものです。この腕に刺さり続ける管のことです。細く骨張った足や腕のことです。なのに、彼はそれをまるで良いことのように言いました。
「ああ、絶望だよ」
頬の痩せこけた彼はやはり空に向かって笑います。
「絶望というものは希望がある場所にしか現れない。なら絶望できるということは、そこに希望もあるということに他ならない」
「なら始めから希望を求めれば良いのに」
「それはつまらないよ。初めから与えられた幸福は幸福ではなく平常だ。僕は平常が欲しいんじゃない、水面の輝きのような、漁船の灯火のような、そんな希望が欲しいんだ」
その横顔はいつにも増して輝いていました。そのまま窓枠を蹴って飛んで、雲の中へと飛び込んでいけそうな、そんな横顔でした。その横顔はいつまでも横顔のままで、だからこそいつまでもその輝きを保っているような、そんな気がして、目を離さないままに頷きました。
「なれると良いね」
彼と決して目が合わないまま、言いました。
「大きな、大きな雲に、なれると良いね」
海の中を照らす太陽のようなその輝きを見つめたまま、言いました。
空の青は海の青が映り込んでいるからなのだそうです。
なので、空を見上げ続けました。そこにある海を見つめ続けました。
探していました。
彼は隣にはいません。少し前から、一人きりになりました。彼はとうとう夢を叶えに行ったのです。きっと今頃、この天井の上に広がる青い海の中を白い雲となって泳いでいるのでしょう。大きな大きな雲となって泳いでいるのでしょう。
なので、探していました。毎日探していました。水面の輝きの中に、イルカの群れの中に、いわしの群れの中に、彼を探しました。
そうして、ようやく。
「……あ」
見つけました。
それはとても大きな雲でした。青い空の中をぽっかりと泳ぐ、イルカよりも大きくて白い雲でした。頭の大きな雫型の胴体、お腹にはすじ雲で描かれた縦じま、背びれはなく、尾びれは広々と草の芽のように二股に広がっています。
その形に見覚えがありました。彼と出会う前、院内の図書館で見た図鑑に載っていた生き物でした。
「……くじら」
くじら雲です。
あれが彼に違いありません。とても白くて、大きくて、尾の一振りでどこまでも泳いでいけそうなのですから。
窓枠に手をかけて、そうして身を乗り出して、それから手を伸ばしました。ずいぶんと細くなった腕をめいっぱい伸ばしました。
そうして。
大きく、大きく、彼に見えるように、手を振りました。
「行ってらっしゃい!」
叫びました。
声は小さな風と共に、くじら雲の下へと飛んで行きました。
解説
2021年06月06日作成
くじら雲になった君
いつか君と、この海を泳いでみたい。
くじらというと二つのお話と一つの歌を思い出します。ひとつは小学校低学年の教科書に載っている「くじらぐも」。そういう雲が実際にあると知った時の、夢が現実として目の前に現れたかのような衝撃と喜びは今もうっすらと覚えています。二つめは「金色のクジラ」。同じ頃に図書館か教室の本かで読んだんだと思います。当時から病気系のお話は苦手でした。それから、おかあさんといっしょの歌の「歌うクジラ」。サビしか覚えてなかったんですが、数年前にネット検索してみたら見つけました。好きですね。
もともとくじらという生き物が好きです。そしてくじらについて触れる時は高確率で生死の話にたどり着きます。今回はそれが強めに出たかな。雲には海に関する名前がたくさんついてるので、そこから着想しました。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei