短編集
36. 地獄変 (1/1)


 手のひらがひどく熱かった。なぜであろうかと見下ろしてみれば、絵筆による筆まめばかりの手は焼けただれていて、皮膚は溶け肉が剥き出しになって半端に焦げているのであった。嗚呼、そういえば先程火に触れたのであったなとぼうやりと思い出す。なぜ触ったのであろうか。ああ、そうだ。
 顔を上げる。パチリパチリと小さな粒状の何かが弾ける音が聞こえてくる。細かく舞い上がった灰が煙と一緒に鼻や口に流れ込んできて、針のように鼻腔や喉を攻撃してくる。悲鳴が聞こえてくる。娘の悲鳴が聞こえてくる。しばらく大殿様のそばへやっていた娘とはいえ間違えるはずもない声が、姿が、今目の前の、触れられるほど近くの炎の中に居る。牛車の中で娘が焼かれているのであった。助けなければならない。けれどこうしているうちに、顔が、腕が、全身が、目が、熱くなって痛くなって涙も枯らして、まるで自分という人間を枯木へと変質させ動きを封じてしまうのであった。
 私は少しばかり後ろに下がり、かたわらに落ちていた筆を掴み上げた。描かなくてはいけないものがある。描き上げると約束したものがある。
 私は何としてでも、牛車の中で燃える女を描かねばならない。
 顔を上げる。炎を見る。屋根の燃え落ちた牛車を、その中で悶え苦しみながらも簾(すだれ)を引きちぎって火の粉を防ごうとしている愛娘を、見る。全ては輝いていた。何よりも輝いていた。あまりにも醜くあまりにも猛々しくあまりにも禍々しくあまりにも美しいので、筆を取らぬ私ではいられなかった。
 私は娘を描いた。娘を取り囲む地獄を描いた。迫り来る炎の腕を描き、その手に触れるかの如く筆を走らせた。
 この炎はすぐに私に追い付き、呑み込み、娘よりも長く熱く私を焼く。それはおそらく夢でもまやかしでもなく、真実となるだろう。
 ――娘にはもう、逢えまい。


解説

2021年07月05日作成

 地獄変
 そうでなくては報われぬ。

 ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【けいさんには「手のひらがひどく熱かった」で始まり、「ぼんやりと思い出した」がどこかに入って、「全ては輝いていた」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題から。
 古書シリーズ。芥川龍之介先生の「地獄変」を題材にしています。ハムレット由来ですが「誰それに死後会う/会わない」という言い方でその人が天国行きか地獄行きかを表現する方法大好きです。語り手は確実に地獄行きを予感していて、そこでは娘に会えないと直感していて、つまり娘は天国へ行くよう願っている、そんな最後の一文でした。
 「文豪とアルケミスト」っていうゲームがアニメ化した時に取り上げられていて、それでお恥ずかしながら内容を知って後ほど青空文庫で読んだんですが、良いですね…好きです。こういうの好き。例えようのない地獄というか、もはやこれ自体が何かの例えなんじゃないかと思わせる実話めいた究極の幻想話、って感じですね。芥川先生のお話は少ししか読んでいないんですが、寓話的というか「何かを例えた」話が多い気がします。だからさらに何かに例えようとしてもどうにもできないのよね。これ以上の例えは存在しない、そんな「読者から言葉を奪う」お話が多い気がします。
 檸檬といい、こういう風に文豪さんのお話をもとにする古書シリーズも良いですね。以前の私がシェイクスピアで何度か試みていましたが、改めてやってみようかな。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei