短編集
2. 冬の森のファニーニャ (2/4)
朝食を終え、さっそく家を跳び出していった妹を追って、ファニーニャとリアーフィは雪の原っぱを歩きます。一面の雪景色にぽつりぽつりと立つ、葉の落ちた木々。寒々しさを訴えるような寂しい茶色の幹は、心なしか夏の盛りの頃よりやせて見えました。
「お父さんとお母さん、いつ帰ってくるの」
隣を歩くリアーフィが訊ねてきます。ファニーニャたちの両親は、ここから少し離れた場所にある街で働いていました。
「今日も遅くなるって。ふくろうが鳴く前には戻ってくるようにするって言ってた」
「そっかあ」
のんびりとした口調のまま言い、リアーフィは大きくあくびをします。アリアーナ、そしてファニーニャとおそろいの、ふかふかの毛のマフラーに耳付き帽子、分厚い手袋。上着とズボンは二重になっていて、冷たい風を防げるようになっています。靴は厚底の革製で、靴下が濡れることはありませんし、口を紐でしっかりと締めているので雪が靴の中に入ることもありません。両親が街で買ってきてくれたこの一式は、冬の森には欠かせない、ファニーニャ達の必需品でした。
「――ファニーニャ! リアーフィ!」
二人の遥か先を歩いていたアリアーナが跳ねながら手をぶんぶんと振ってきます。と、手を大きく挙げたまま、アリアーナがかかとをつるりと滑らせました。あ、とファニーニャが声を出した瞬間、アリアーナは両足を宙に放り出して、そしてお尻から地面に落下しました。
どしん!
「いったあい」
「もう! 雪の上は滑るから気を付けなさいっていつも言ってるのに」
早歩きでアリアーナの元に行き、ファニーニャは腰に手を当てて妹を見下ろしました。ファニーニャの隣で、リアーフィも同じポーズでアリアーナを見下ろします。二人に見下ろされ、さすがのアリアーナも膨れ面になります。
「だってえ……」
「だって、何?」
手を差し伸べてやりながら、ファニーニャは聞き返します。立ち上がったアリアーナはふいと遠くを見てそちらへ指を差しました。
「だって……あっちから、声が聞こえたんだもん」
「声?」
ファニーニャはアリアーナが指差した方へと顔を向けます。何の変哲もない細い木々が雪野原の中にぽつぽつと生えているだけです。声どころか鳥の鳴き声すら聞こえません。雪に吸い取られてしまったかのように、森から音が消えています。
「……聞こえないよ」
「ぼくにも聞こえない」
「聞こえたんだもん。さっきは」
「……ふーん」
空耳でしょ、と言いそうになるのをぐっとこらえて、ファニーニャは森の奥を見つめます。ファニーニャも子供ですが弟と妹はもっと子供です。その無邪気で豊かな感性で、ファニーニャにはわからない何かを聞き取ったのかもしれません。
ファニーニャはそういったものが好きでした。見えないはずのもの、聞こえないはずのもの、あるはずのないもの――不思議なものの存在を信じていると、それらに守られているような、見つめられているような、優しい気持ちになれます。けれど、成長し大人に近付いていく中で、ファニーニャはそういったものを見たり聞いたりすることができなくなっているのを感じていました。これが大人になるということなのかしら、お父さんやお母さんがファニーニャの見たり聞いたりしたものを「本当だね」と言ってくれないように、わたしもいつかわからなくなってしまうのかしら、とファニーニャは思います。そして、もしそうならば、わたしは大人になりたくないな、とも思うのです。けれどファニーニャは確実に成長していて、今まで見えていた不思議なものは全て目の錯覚で、今まで聞こえていたものも全て幻聴で、今まで信じてきた伝説は全て迷信であることを知っています。それがどうしても、ファニーニャには寂しいのでした。
そんなファニーニャの恐れを救うかのように、幼い弟妹は「見えたもの」「聞こえたもの」「触れたもの」全てをファニーニャに教えてくれます。ファニーニャにとってそれは嬉しいことでした。弟妹たちについていけば、自分がまだ無邪気で幼い子供であるかのように思えるからです。
「どんな声だったの?」
ファニーニャはなるべくつっけんどんに訊ねます。ここで優しく訊いてしまったら、ますます大人に近付いてしまう気がしたのです。
「うーんと、お歌」
「歌?」
「しゃららって歌ってる。今も、ほら」
鈴を思わせる言葉を使いながらアリアーナは再び森の奥を見やります。それは鈴の音のような声ということでしょうか。心の中で首をかしげながら、ファニーニャはアリアーナと共に森の奥を見つめます。耳をすませ、何も見逃さないように目をしっかりと開きます。けれどやはり、ファニーニャには何も見えず何も聞こえません。時折木の枝からドサッと雪が落ちていくくらいです。猟師の熊鈴かしら、と思いましたが、今は熊の活動時期ではないし、今年は冬眠に入れなかった熊はいないようだという報告を聞いています。第一、人らしき姿はどこにも見えないのでした。
「あ、ほんとだ」
ふとリアーフィも呟きます。
「ら、ら……ららら。うん、こんな感じ」
小さな声には抑揚がありました。歌っているのです。リアーフィはのんびり屋ですが、日常の音を聞き取ってメロディを作る天才でもありました。薪が燃える音、アリアーナが椅子を跳ね飛ばして立ち上がる音、雪の下を流れる水の音――そういったものからメロディを掬い上げて、鼻歌で再現するのです。元々はファニーニャの一人遊びで、二人が生まれてからはゆりかごの横でゆりかごの音に即興の歌詞をつけて聞かせてあげていました。大きくなった二人はファニーニャを真似て、リアーフィがメロディを口ずさみ、アリアーナがそれに歌詞をつけて遊ぶようになったのです。以前はファニーニャも一緒に音を口ずさんだりしていましたが、今は二人の作ったものを紙に書き留めるだけでした。ファニーニャの部屋の机の上には、二人が歌った音を書き記したたくさんの紙束が、綺麗に積み重ねて置かれています。
「……ふーん」
少し悔しく思いながらファニーニャは森の奥を睨みつけました。
「行ってみようか」
これは好奇心からではなく妬みから発した提案でした。見たいのに見えない、聞きたいのに聞こえない――それはファニーニャにとって忌むべき事実なのです。
――わたしだって、まだわかるはず。
二人が聞いているそれを目で見てもう一度耳を澄ませば、きっとファニーニャにもその音は聞こえてくるはずなのです。
「行く!」
ファニーニャの真意も知らず、アリアーナは顔を輝かせます。うん、とリアーフィも森の奥を見つめながら頷きました。二人の様子に、ファニーニャは今度は恥ずかしくなります。
――これじゃまるで、子供の訴えに付き合う大人みたい。
これが成長というものなのだとわかっていても、いつか自分も大人になるとわかっていても、嫌なものです。だからこそ、ファニーニャはもう一つの思いを弟妹に抱いています。
――二人は、わたしみたいにならないでほしい。
いつまでも、聞こえないものが聞こえる幼さを失わないでほしい、と。
それが大人になることと正反対なことだとわかっていても、ファニーニャは思ってしまうのでした。
***
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei