短編集
44. 泥の民 (1/1)
その小屋は山の中にある。
「うえぇ」
吐瀉物を吐き出すような声を上げながら、警官達は扉の中からそれを取り出していく。どれもが見慣れた形の、そしてどれもが見慣れぬ形にねじ曲げられた、腐臭を放つもの。黒色の強い泥を纏ったそれは泥と共に白い箱の中に詰め込まれていた。
「冷蔵庫にも容量ってのがあるんだけどねえ」
煙立つ煙草を口から離し、一度に煙を吐き出す。むわりとした灰色のもやが腐臭を押し、けれどすぐさま押し負け消えていく。
きりがない。
煙草を地面へ捨てて踏み躙ろうとし――足裏がねとりと音を立てる。黒色じみた泥が満遍なく地を覆い、警官らの足音を全て象っているのだった。
この泥は――『泥』は煙草の吸い殻すら好物だ。
改めて胸元から取り出した携帯灰皿に灰もろとも長さの残った煙草を無理くり押し込み、そして他の警官が出入りするその小屋の中へと立ち入る。
「何人だった?」
「八人、です」
うえぇ、と呻きながら警官が言う。
「うえ、もう、俺、無理っす……」
「吐くなら現場から離れたところでしろよ。――あ、待て、川はやめろ、ここらの生活用水だからな、苦情が出る」
「そんなあ」
警官は泣きながら山の斜面へと向かっていった。その哀れな背から目を離し、そして周囲を見回す。
山だ。両脇に山がそびえ、鬱屈とした暗緑の針葉樹林に覆われている。その中にこの小屋はあった。小屋とは言うが、家だ。小さな家。川辺の平地に群れる小さな集落の中の一つ、一際小さな、人一人が生活できるほどの、最低限の生活品が置かれた、茶けたトタン屋根の家。とはいえ人気はなく、家の床には洪水後のように泥が広がっている。肌がむず痒くなるような湿度、川辺だというのに空気の流れは悪く、深呼吸は憚られる。傍らから聞こえてくる怒涛の水音だけが清い。
その台所で多くの警官達が眉を顰めている。周囲を覆うブルーシートが地からの熱気と腐臭とをこの小屋に閉じ込めているのだった。
「遺体の照合を急げ」
指示を出し、己もまたそちらへと手を伸ばす。手袋越しに泥を掴むような感覚。それを掴みあげようとした指はそのまま黒ずみかけた肌色に食い込み、埋まっていく。弛んだ筋がぬむりと千切れる触感。
諦めて手放した。
「ま、衣服を見る限り当たりだろうな。どれも行方不明になってた女子高生の制服だ。顔は……いや、歯の照合はできそうだな」
「諸橋さん、なんでここで平然と……げほ、ぐえ、話せるんですか、ぐええ」
「慣れだ慣れ。同じような遺体をいくつも見てきた。ここ最近の事件はどれも『泥』関係の遺棄事件だからな」
「おえぇ」
また数人の警官がブルーシートの向こうへ駆けていく。
そう――珍しい事件ではない。腐りの早い遺体が絡む事件は数十件と担当してきた。遺棄事件はその中でも特に多い。遺棄したから腐りが早くなったとも言える。おおよそ、人間の肉体にはこの地への耐性がないのだ。
呼吸機能を失った人体は『泥』に弱い。
その特性を利用した、証拠隠滅を目論む遺体遺棄だ。
とはいえ、呼吸機能が正常であっても『泥』には長時間触れてはいられない。
「多すぎるんだよな」
手袋を外した手で自身の顎に触れる。伸びかけた髭が指と爪の間に突き刺さってくる。
「『泥』の地にわざわざ運び入れる訳がわからん。この三ヶ月で十人だ、そんな多くの行方不明者を短期間に出していたらさすがの警察も犯人の目星がつけられる。『泥』の地のどこに遺体を運び入れるかすら予想できるようになる。現にこうして見つけられた訳だが……」
妙だ。
「犯人とて人間だ、『泥』に食われる。燃やすでもなく沈めるでもなく、なぜ危険を犯して『泥』に埋めた……?」
「諸橋さん」
そろり、と背後から若い警官が呼びかけてくる。逃げ腰のまま、彼は『泥』にまみれた遺体の群れから必死に目を逸らしていた。
「あの……そろそろ、接触時間が限界です。『泥』から離れないと」
「俺は平気なタチだが」
「一応です一応。今までが平気でも、ある日突然『泥』に食われちまうかもでしょう」
「そんな日にゃ欠片も残さず消えられるねえ、墓要らずは子孫思いだ」
「またまた冗談をぉ。とにかく、退避ですよ退避。ちゃんとシャワーで『泥』を落としてくださいよ? 『泥』への耐性は人それぞれですけど、あなたほど死から遠いお人だって少しは食われるんですから」
「へいへい」
全く、口うるさい部下だ。
小屋から出、山の麓に設置された拠点へと戻る。拠点とは言うが、見目は災害時の避難所に似て、プレハブ小屋を積んだトラックと仮設トイレ、そしてホースのついた給水車が数台、古びたチェーン着脱場に並んでいるのだった。路面は割れたアスファルトが露出し、満遍なく水に濡れている。『泥』はない。
「『泥』の地なんて初めて来たなあ」
と、シャワー――つまりは給水車から直々に水を放出するホース――にいた年配の警官から声をかけられる。
「こんなに『泥』しかないとは予想外だった。なのに集落跡があるなんてなあ」
長靴の底へとホースの先を押し当て、押し当てすぎて水飛沫を強く周囲に散らし、軽い謝罪と共にホースの位置を調整した彼へと「昔は『泥』はなかったんですよ」と答える。
「資料によるとですけど、ここはただの集落だったんです。いつの日か『泥』が流れ込んできた。だから今は誰もいない」
「退避したのか、それとも」
ちら、と老いた目元がぎらりとこちらを見遣ってくる。
「……食われたのか」
「さてね」
首を振る。
「『泥』に食われたものは痕跡が残らない。調べようがないですよ」
「人間に限らず動物の全て、植物の全てを酸化作用で溶かす『泥』……本来の泥は空気を遮断し還元作用で腐食を遅らせるんだがなあ」
「詳しい話は勘弁ですよ、化学は苦手なんです」
「注文をつけるな、若造が」
「もう四十目前ですよ」
「なら知ってるか」
にやりと垂れた頬が笑む。勇ましい太眉が凛々しく跳ね上がる。ぱしゃりと水が地面に流れ行く。
どれもが傍らの激流の水音に掻き消される。
「『泥』の中で住まう人間がいる」
その声だけが、耳に届く。
「この『泥』の地の奥、人の足ではたどり着けぬ天上の里、そこに住まう民がある。彼らは人の姿をし人に馴染みながらも人ならざる知恵と力とを有し、『泥』と共存しているという」
「それはまた、にっぽん昔話にでも出てきそうなお話だ」
「残念ながら嘘でも伝説でもない。そもそも『泥』なんぞという不可思議で非科学的なものを目にしている今、この話を紛い物だと断じるのは早計だろうが」
「さて、ねえ」
「『泥』は泥ではない、諸橋」
老いた声はしわがれ、低まり、地響きを有する。
靴の上に水がかかる。老警官の手の中、ホースの先から水が吐き出され長靴の甲の上にぶち当たっていく。泥がその勢いに押され、地面へと流れ、水と共に地へ溶け込んでいく。『泥』は普通の泥とは違い、水溶性なのだった。炭素を多く含み還元性に優れているはずの、黒色の泥――『強酸化黒色異泥』なんて名をつけられた通称『泥』は、明らかに泥ではない。
泥に似た、何か。
ほれよ、と用済みとばかりに渡されたホースで靴元の汚れを落としていく。まるで逃げるように黒色のぬるぬるとしたそれが靴から剥がれ地面に溶けていく。
この異常な物体に慣れてしまったのはいつからだったか。
「……『泥』の中に住まう人間、ね」
呟く。
「まさかあの伝承を真実だと思う日が来ようとはなあ」
呆れ声を水音に上手いこと隠し、泥を落とし切った後給水車の腹から出っ張った蛇口を捻って水を止める。手元から振動が失せ、水砲は雫となり、ホースは地面へと首をもたげる。
顔を上げる。暗緑の木々の上に暗灰の雲が群れ、空を我が物としている。日は見えない。元々光など存在していないかのような暗澹たる視界。轟々と落差を落ち行く水が飛沫き、もやとなり、天へとけぶる。
「……ちょいとご協力をお願いしなきゃならんかもねえ」
雲の一点を睨む。
「『泥』と住まう者――『泥』の民に」
解説
2021年10月02日作成
夢の内容を書き出したもの。続かない!
この後『泥』の民である少年と遭遇して、少年は予言者でもあって、話す言葉全部真実になるから口数が少なくて…みたいな感じでした。空飛んでたな。『泥』の民の住まいは普通の人間にはたどり着けないのです。おうちはやっぱり『泥』で汚れてて、でも本人達(彼の家は孤児数人が暮らしていた)は全然気にしてなかったのできっと彼らは食われないのでしょう。
夢にしてはなかなかに面白いお話でした。私は続きが気になります。ミステリーかな? あまりそういうのを読まないし見ないので展開が全く思いつきません。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei