短編集
56. 雨と星のあふせ (1/1)
満天の星空の下で、僕達は約束をした。
「いつかまた、星空を一緒に見よう」
夏の流星群は珍しく快晴となった夜空にいくつもの線を描いた。このところずっと雨で、流星群どころか星空なんてものは二度と見ることができないと思っていた。けれど空は晴れた。
僕が産まれてから初めて見る、晴れ、だった。
「これを見れないなんてどうかしてるよ」
川辺の土手の斜面に寝そべって君は笑う。四肢を放り出した大胆な寝方は少女らしからぬ、けれど彼女らしい体勢だった。
僕は彼女の顔を見つめる。空を見上げ続けて暗さに慣れた僕の目は、夜とは思えないほどに彼女の顔をはっきりと認識する。
大きく見開かれた目、笑みを浮かべ続ける口元、雑に掻き上げられた前髪の下に広がる額。
夜なのにこんなにもはっきり見えるんだな、と僕はこっそり感嘆する。
「この時代の人達は夜の何を楽しむの?」
「夜は寝る時間だよ。ただ、それだけだ」
「もったいない。昼にはない楽しみが夜にはあるのに」
「……知らなかったからね」
彼女の視線を追って空へと目を戻す。首が痛くなるほどに顎を上げて空を見上げる。
星。
太陽よりも小さくて太陽よりも頼りない光の粒。あれを光だとも気付かなくて、彼女に言われて初めて知った。雲の向こうに空があることも知らなくて、そこに模様があることも知らなくて、その模様がキラキラしていることも、時折流れ星というものが現れることも知らなかった。それらが自分達より大きな岩だというのはあまりにも信じ難い。
けど。
何も言わずにずっと眺めていられるほどには、綺麗な光景だと、思う。
「……はあ」
顔を下向けて後頭部を軽く揉んだ。首が疲れる。ずっと真上を見上げるなんてしたことがなかったから、ものすごく疲れる。
「寝そべれば良いよ」
「嫌だよ、汚い」
「どうせ後でお風呂入るくせに」
「そうだけど、気分が嫌だ」
「でも楽だよ。視界いっぱいに星空が見えるし」
「帽子が邪魔だもの」
「脱げば良いじゃん」
「恥ずかしいよ」
「恥ずかしい?」
彼女は首を捻るように僕へと丸い目を向けてくる。
「どうして?」
「……僕らは外で帽子を外さないから」
「ふうん」
変なの、と彼女は言った。帽子をただのファッションアイテムだと思っている彼女にはきっと一生わからない感覚なんだと思う。僕らにとって帽子とは雨避け機能のある被り物であり、雨の中外したものなら世間から笑われるほどのものなのだから。
星を知らなかった僕のように、彼女は僕らの常識を知らない。
「私、晴れ女だからさ」
頑なに帽子を脱がなかった僕へと彼女はそれ以上何も言わず、朗らかに笑った。
「晴れると思ったんだよね。晴れて良かった」
「晴れ女って?」
「天気が晴れやすい女の子のこと。遠足とかお出かけとか、そういう時に晴れやすい体質っていうか」
「何それ」
「ふふ、この時代の人達には晴れ男も晴れ女もいないのかもね。私一人がいるだけでも効果が大きいのかも」
彼女の言うことはたまによくわからない。たまに、どころかほとんどわからない。
「まさかこんな未来があるとはねえ」
彼女は空へと指を伸ばす。その行為に何の意味があるのかも、僕にはわからない。ただ、その指の先を、整えられた爪の先を、見つめる。
「年中雨の未来。異常気象が当たり前になったってところかなあ。せっかくもぎ取った学生枠だから、機械技術が発達した未来とか、そういうのを期待してたんだけど」
「……何か、悪かったな」
「全然。これはこれで面白いね。憂鬱になるかもだけど」
「憂鬱?」
「ああそうか、毎日が雨なら雨で憂鬱になることもないのか」
彼女の言っていることも、なぜそんなことで笑うのかも、全然わからない。
彼女が現れたのは先週だった。近未来相互開発事業――選ばれた人々が他の世界線を一定期間行き来するプロジェクトの一環で彼女は僕らの世界に降り立った。僕の家はホストファミリーとして登録されていて、彼女を一時期預かることになったのだった。
彼女の世界は宇宙開発が進んでいるのだという。地上で暮らす人はほとんどいないそうだ。
宇宙というものがどんなものなのかさえ、僕は知らない。流星群が見れる時期だと言い出した彼女にそれを伝えた途端「教えてあげるよ」と彼女は大雨の降る夜、帽子も手にしないまま外へ飛び出していったのだった。
そして今に至る。
晴れた空の下で、僕らは星を見上げている。
雨が降っていないことに気付いた瞬間パニックに陥らなかったのは、何度振り返ってみても凄いことだと思う。実際、雨音が止んだ途端住宅街は一気にざわついた。実際雨が止んでいるのはこの辺りだけで、遠くに見える雲が近づいて来ているからすぐにまた雨が降ると思うけど、たぶん今テレビでこの地域の生中継がされていると思う。そのくらい大騒ぎになる事態だ。
けど、隣にいた君が。
――やった、晴れたね!
知らない単語を口にして笑うものだから。
――は、れたね?
――雨が止んだってこと! これで星が見えるよ!
――雨が、やむ……?
――あ、そうか、『晴れる』って言葉も『雨が止む』って言葉も、君達は知らないんだね。じゃあ教えてあげるよ。おいで!
その笑顔に、手に、どうにかパニックを抑えて頷いて。
君の手を差し出されるがままに握って、二人で雨のない世界を走った。
物知りな彼女は晴れた空の下で星を教えてくれた。今はあの星を探索中なんだとか、この星は自分の世界ではもう消えているだとか、そんなことを他愛なく教えてくれた。晴れているのが当然のように教えてくれたから、僕も段々と晴れているのが普通のことだと認識し始めていた。
だから約束した。
「いつかまた、星空を一緒に見よう」
だから忘れていた。
このひとときが僕達にとってどんな意味を持っていたかを。
***
結論から言おう。彼女は強制返還された。理由は「交流先未来の秩序を乱したから」。
僕達の世界は雨が降るのが常だった。だからそれを当然とした構造をしている。僕らは外に出る時必ず帽子を身につけるし、全ての川は整備されて氾濫しないようになっているし、電力をはじめとする動力源は全て雨に頼っている。
あの夜、晴れたのは十分かそこらだった。その十分であちこちが停電し、生活が困窮し、救急が逼迫した。
彼女の「晴れ女」が僕らの世界を混乱させた。
プロジェクトはこの事態を重く受け止めて、彼女を元の世界に戻すことにした。彼女もそれを受け入れた。彼女の意思によるものじゃなかったから、誰も彼女を責めはしなかったし、彼女も抵抗することはなかった。
それでも、僕は。
彼女の笑顔が、手が、目が、指が。
星というものを教えてくれた彼女そのものが。
この世界から否定され一方的に追い出されたかのように思えて。
――この数年、恨みに似た何かがずっと胸の中で渦巻いている。
「いよいよ明日ね」
夕飯を食べながら母がゆったりと微笑んだ。
「まさかうちの子が近未来交流プロジェクトに参加するだなんて、思ってもみなかった」
「近未来相互開発事業、ね」
「頑張ってくるんだぞ」
父が拳を握りしめて笑いかけてくる。
「お前は国の、世界の、俺達の誇りだ」
「でも不思議な縁ね。派遣先がまさか」
「僕が願い出たんだ。宇宙に興味があったから」
「うちゅう、ねえ。私達にはよくわからないけれど、頑張ってきなさいね」
ごちそうさま、と箸を置いて、僕は席から立ち上がる。皿を台所へと持っていけば、窓の外から雨音が聞こえてきた。
絶えることのない、水が落ち続ける音だ。
僕が産まれてから死ぬまで共にあり続ける音、そのはずだった音。
僕はこの音が途絶える世界を知ってしまった。
少し考えて、僕は自分の部屋から帽子を持ち出した。
「外に行ってくる」
「今から?」
「今だから」
物言いたげな両親を背に、飛び出すように家を出る。雨が降る中、庭の紫陽花も道端の雑草も土手の芝もぐっしょりと濡れきっていて、帽子の下で僕だけは濡れずに済んでいた。紫陽花も芝も品種改良の末に雨に強い種になっている。雑草だって雨に弱い種は既に絶えてしまった。むしろ僕達と同じで、紫陽花も雑草も芝も雨が止めば即座に枯れるだろう。
ここはそういう世界で。
きっと彼女には合わなかっただけで。
でも、どう考えても――あの時の空と彼女の笑顔と声と、全てが間違いだったとは思えないのだ。
だから。
いつの日か彼女に連れられて辿り着いた土手の斜面に立って、僕は空を見上げた。雨が降っている。雲がある。空は見えず、星も見えない。
躊躇って、けれど意を決して帽子を外した。どんな豪風でも外れない、雨を凌ぐための帽子。外で外すのはこれが初めてだ。何だか、人前で服を脱いでいるかのような羞恥がある。その羞恥をどうにか振り切って、帽子を外す。
途端、頭部も髪も頬も、雨に濡れる。けれど僕はあの日の彼女のように背中を地面へとつけて寝そべった。背中だけでなく全身がシャワーではない水に濡れきって、思った通り気持ち悪かった。
そうして上空を見上げて。
――数秒、呼吸を忘れて。
「……へえ」
思わず呟けば、口に雨粒が飛び込んできた。
視界いっぱいに雨雲がたっぷりと広がっている。頭上にも足元にも雨雲しかない。そこから雨粒がぐうっと近づいてきては目で追う間もなく僕に衝突してくる。地面の映らない視界は変な感じだ。自分がどこにいるのか一瞬わからなくなる。背中に硬い地面の感覚がなければ、もしかしたらパニックに陥っていたかもしれない。
変な感覚だ。
でも、もしこれが――あの晴れた夜空の下だったのなら。
そっと目を瞑って、思い返す。彼女と見上げた星空を、首の痛さを、隣で堂々と寝そべった彼女の顔の輪郭を、目を、口元を、額を、指を。
思い出せる。けれど、彼女のあの大きな眼差しに映ったであろう視界いっぱいの星空は想像しきれない。
だから、見に行く。
明日、僕は君の世界へ赴く。
君に会いに行く。
そうして――また、君と一緒に星空を見よう。今度こそ君の横に君と同様に寝そべって、君と同じ光景をこの目に映そう。
そうしたら、僕はきっと。
やっと、この胸のわだかまりを雨に溶かせる気がする。
――聞き慣れた雨音が小さな衝撃と共に全身を叩いてくるのを、僕は静かに受け入れていた。
解説
2021年11月13日作成
「やまとことばワードパレット」十番目。
「あふせ」。Weblio古語辞書様曰く、
あふ-せ 【逢ふ瀬】
男女の会う機会。
とのことでした。
ワードは【手を握る・ひととき・目を瞑って】。
SFチックになりました。逢瀬といえば古典、そして七夕伝説だったんですが、その手の古典はもう題材にしたし七夕伝説も「せせらぎ」で題材にしてしまったし、そもそも前回の「ちぎり」で男女の再会書いちゃったな?…と悩みに悩んで、SFです。SFの別れはまた会える気がするから良いですね! 時も空間も世界線も越えていける!
男女の、と指定されているので男女です。瀬、という単語からやはり水はかかせませんでした。そしてやはり出てくる天体要素。天体ということは空は晴れ、晴れという概念があるということは雨天という概念もまた存在する、じゃあ晴れない世界で天体観測をしようということになりました。前回の「ちぎり」が別れで終わったので、今回は再会(の一歩手前)で終わらせています。向こうの世界線で二人仲良く地球以外の天体から宇宙を見上げて語り合って欲しいですね。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei