短編集
7. 春の香りをまとう君へ (1/1)


 春が鼻先をくすぐった。それはふわふわとしていて、陽の光に当てた布団のような匂いがして、正直鼻だけでなく顔全体をそれに埋めてしまいたい気がしたけれど、肝心の君のご機嫌はよろしくなかったようですぐさま私の顔をその柔らかな肉球を秘めた四つ足で踏み付けて去ってしまった。昼寝から目蓋を開けてそちらを見る。ひょいひょいと指揮棒のように尾が揺れ尻が揺れ、綺麗な白い脚がすらりと曲線を描いている。可愛い。背面すらも可愛くてたまらない。ああ、私はもう眠れない。君という素敵に気分屋な家族がこんなに近くに来てくれたのだもの、眠ってなんていられない。
「みゃーちゃん、おいでぇ」
 長閑な日差しのような間延びした声を上げて手招きする。けれど名前を呼ばれた君はというと、ちらりとこちらを見遣った後「何だ気のせいか」とばかりに顔を前に向け直してしまう。ああもう、気紛れ屋さんめ。寒い夜は断りもなく布団に潜り込んでくるくせに。
 みゃーちゃん、ともう一度呼んでみる。ぱたぱたと両手で手招きしてみる。その構ってちゃん攻撃の甲斐もなく、君はこちらを振り向きすらせずとことこと歩き去ってしまった。
 ああ、悲しい。
 くぅ、と額に手のひらを当てて悔しがりつつちらりと見れば、君の背中がやけに遠く見えた。


解説

2021年02月18日作成

 春の香りをまとう君へ
 お願いだから少しだけ、すこーしだけ、こっち来てくれませんか?

 ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【あけるさんには「春が鼻先をくすぐった」で始まり、「私はもう眠れない」がどこかに入って、「君の背中がやけに遠く見えた」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題で。
 春の匂いってどんなだっけと考えて猫に行きつきました。猫どころか動物を飼ったことはなく触った回数すら指で数えられるほどなんですが、Twitterで猫飼いさんの様子を見て和ませてもらっています。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei