短編集
8. 君色の恋心 (1/1)
「あなたの恋は何色ですか?」
突然そんなことを言われた先輩は、とても驚いた顔をしていた。キャンバスに向けかけた絵筆は宙で止まって、その背後では風に吹かれた厚手のカーテンがひらひらと揺らいでいる。午後、放課後のひととき。いつもと同じその時間、何かを写し取るように躊躇いなく手を動かす先輩と気の向くままに語らうのが僕の部活動。
「……へ?」
先輩にしては珍しい驚きようだ。そうだろう、恋の色、だなんて詩的で曖昧で、きっと普通の人は考えもしない。「突然どうしたの」だとか「え、気持ち悪い」だとかと笑われるかもしれないな、なんて思ったけれど、口に出してしまったのだからこれはもうどうしようもない。ただ、からかうための問いかけじゃないという意思表示はしたくて、僕は柔らかく笑ってみた。
「どうです?」
「……恋の色、か」
先輩は火照る頬をそのままに、僕の言葉を繰り返した。繰り返して、呟いて、そうして視線を彷徨わせて、一つ頷いて。
「……水彩絵の具が一番良いかな。いくつかの色を薄く薄く薄めて、筆に少しだけ含ませて、紙にぽんって乗せるだけ。輪郭とか構図とか何もない、ただ筆を乗せてそのにじみ具合を楽しむような……作品としてではなくて、誰かにあげるためのものでもなくて、後で捨てる試し書きの時のように、目的もなく美しさを求めるもなしにただ絵の具を使ってみた時の、色」
「捨てちゃうんですか」
「試し書きだもの。でも、案外綺麗な色合いになって、捨てるのがもったいなくなって、作品に変えたり大切に保管してたまに眺めたりとかはするかもしれない。もちろん、捨てるかもしれないけど」
先輩が笑う。キャンバスのどこにも乗せなかった絵筆の先をパレットに戻して同じ色を筆の先に付け直して、そうして笑う。
後で捨てる水彩絵の具の試し書き。それが先輩にとっての恋の色。なら僕にとっての恋の色は? 無論、考える必要なんてない。顔を上げた先に、毎日、この時間、ここにあるのだから。
「捨てちゃわないようにしてくださいよ? 今度いつ試し書きできるかわからないんですから」
「あ、言ったね? でもまあ、そうかもね。うん、大切にするよ、一応」
先輩が笑う。曖昧でわかりにくい話を丁寧に拾い上げて、そうして曖昧でわかりにくい話のまま僕の問いかけに答えてくれる先輩が目の前にいる。
僕にとっての恋の色は、これだ。この時間、声、言葉、発想。これが僕にとっての色。赤や桃色や光なんてものよりも明るくて華やかで目に刺さって眩しい、僕達だけの色。それがあるというだけで僕は生きていられる。これを詩的で曖昧に言うのなら。
「じゃあ君にとっての恋の色は? どんな?」
「げ、質問を返してくるなんて……でも、まあ、そうですね」
僕は笑った。
「先輩、ですかね」
曖昧に、わかりにくく。
――あなたがいる。だからこそこの世界は、美しい。
解説
2021年02月19日作成
君色の恋心
先輩がいなくなったら、この世界は何色になるんだろうな。
ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【けいさんには「あなたの恋は何色ですか」で始まり、「柔らかく笑ってみた」がどこかに入って、「だからこそ世界は美しい」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題で。
色、とのことだったので絵筆を登場させました。絵を描くような、色を選んでキャンバスに乗せて重ねるような、何色とも言えない色なんだろうなという想像。それも独占的なものではなく相手を支え応援する唯一のものです。これも恋。必ずしも「ザ・恋愛!」みたいな恋愛じゃなくても恋は恋だと思いたいし、そういう世界であって欲しい。人の思いは形式にあてはまらなくても良いはずのものなのです。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei