短編集
9. 涙雨の止む日 (1/1)


 ただひたすら想っていた。けれど口には出さなかった。ずっと、ずっと、廊下で擦れ違うたび、教室の窓から見下ろしたグラウンドで見つけるたび、全校集会のステージの中央で表彰状を掲げるたび、地方新聞の夕刊の片隅に名前と写真を見つけるたび、その満足そうな笑顔が私に向けられているという妄想をして、私はその笑顔に応えるつもりでじっと彼のことを見つめ続けていた。もちろん、不審者めいた私の行動どころか私の存在すら、彼は知らない。一学年下で部活も家の方向も得意科目も何もかも共通点のない女子生徒のことなんて、彼が知っているはずもない。
 今日は三月中旬。雪は降らず、代わりに水の雫が数えきれないほどたくさん、たくさん降り注いでいる。雨の音がざあざあと聞こえてくる体育館での「仰げば尊し」はピアノ伴奏があまり聞こえてこなかった。
 グラウンドで傘を差しながら話し込む人影を、いつものように教室の窓から見下ろす。その手にはリボンの結ばれた黒い筒。今日だけ、彼の手元を飾る物。そして明日からは彼本人も筒と一緒にいなくなる。――いなくなる、わけじゃない。私の生活範囲と彼の生活範囲が交わらなくなるだけだ。新聞には載るだろうし、噂も聞こえてくるに違いない。いつかテレビの全国放送番組にも出るかもしれない。ただ、この目であの姿が見られなくなるだけ。
 だから、お願い、私。今日で最後にしたいの。忘れろってわけじゃない。嫌いになれってわけじゃない。ただ、一人のファンとしてひたすらに彼を応援できるようになりたいの。彼が誰かと結婚したとして、その時に真っ先に「おめでとう!」ってコメントを書き込めるような、そんなファンになりたいの。でも、少し不安だよ。本当に、私、小さな子供のかけっこを見守るような、そんな優しい心になれるのかな。この熱くて悲しい想いも、いつかは愛に変わるのかな。本当かな。わからないよ。けど、変わって欲しいよ。
 ただひたすら、グラウンドを見下ろす。それ以外をしないのは私のためだ。この胸の痛みを慰めるためだ。そうして、いつか穏やかな気持ちで新聞の片隅から目を離せるようになるための練習。この想いが恋とは違うものになるようにという祈り。
 たたたた、と雨がどこかに降り続ける音が聞こえている。けれど見上げなくても、空が晴れていることは知っていた。グラウンドの水たまりが光っているからだ。明るい光がそこにあるからだ。
 彼がいるいつもの景色が、眩しく光っているからだ。
 少し目が痛くて、けれど目を閉じるのだけは嫌で、目を細めて視界を狭めた。じっと、じっと、グラウンドを見つめる。神社の前で両手を合わせる時みたいに、じっとその光景を見つめ続ける。
 いつか。
 いつか、本当に。
 この気持ちがおおらかで優しくて、彼に誇れるものになったのなら。
 いつか、私は、彼に。
 ――ずっと好きでした、って、言えるかな。
 グラウンドへ降っていた雫の数は減って、ぱたた、という軽い打音すら聞こえなくなってきていた。晴れ間がすぐそこにある。天女の羽衣のような光の筋がグラウンドへと差し込んで、少なくなった雨をきらきらと照らす。まるでラメを含んだ絵筆で空中に色を塗ったみたい。傘を下ろして空を見上げて、グラウンドの中で歓声が上がる。指差す先にあるのはきっと七色の虹。それを見上げてはしゃぐ彼を見つめて、子供みたい、だなんて思って、それでもやっぱり目は離れなくて。
 けれど、きっと大丈夫。そう思う。
 私の目の端に浮かぶこの雨も、もうすぐ止むだろうから。


解説

2021年02月22日作成

 涙雨の止む日
 少なくともそれは、今日ではないけれど。

 ツイッター診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語3」から【明さんには「ただひたすら想っていた」で始まり、「いつかは愛に変わるのかな」がどこかに入って、「雨はもうすぐやむだろう」で終わる物語を書いて欲しいです。】というお題で。
 いつかは愛に変わるのかな、という一文でお話が思いつきました。雨上がりのグラウンドを教室から見下ろしている女の子――お話の最後ではまだ雨が降っていなくてはいけないんですが、想像できたのは虹のかかるほどの水滴混じる明るい空でした。というわけでこうです。このお話にも絵筆イメージ出ていますね。もはや癖かもしれない。
 ちなみに「涙雨」は「なみだあめ」と読んで、悲しみを雨に例えた言葉である他に「涙のように少しだけ降る雨」の呼称でもあります。日本語は雨の名称をたくさん持っていますが、肝心の使用者である私達がそれを使いこなせる気がしません…


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei