短編集
18. せみしぐれ (1/1)


 鼓膜を打ち付ける蝉時雨の中で、僕はいるはずもない君の声を聴いた。
「……え?」
 振り返り、辺りを見回す。大きな桜の木が何本か突っ立っているだけの広場には、相変わらず僕しかいない。――否、桜の木にへばりついたたくさんの蝉がいるだけだ。
 強い日差しの中、風はささやかにしか吹いてこない。空は青く、澄んでいる。桜の木は春の優しさを全く見せず、滑らかな幹を堂々と見せつけながら、緑の葉をかさかさと揺らしていた。
 僕は冬の桜が好きだ。凹凸のない幹が、枝が、白い雪を抱えてすっくと立っている様がかっこいい。
 以前そんなことを言ったら、日本人じゃないと言われたことがあった。
 ――日本といったら桜の花でしょ。
 そう言って、君は不満そうな顔をして。
 脳裏に浮かぶその顔が軽やかな笑みへと変化したところで、僕は強く頭を振った。
「……駄目だ」
 誰もいない場所で、僕は強く目を閉じて耳を塞ぐ。
「駄目なんだ……駄目なんだよ……!」
 思い出しちゃいけない。少しでも思い出したら、僕は懐かしさと恋しさで壊れてしまう。
 蝉の声が手のひら越しにぼやけて聞こえてくる。君の声が交じっている気がして、耳を澄ませてしまう。そんな自分を邪魔したくて、僕はさらに両手の平を強く耳に押し付ける。
「駄目……駄目……だめっ……!」
 蝉の声は、霰のように僕の手のひらを貫いて、鼓膜を破ろうとしてくる。まるで僕を苛めるかのように、無理矢理声を聞かせてくる。
「だめ……やめて……おねがい……」
 ああ、どうしよう。
「や、め……て……」
 君が僕のまぶたの裏で笑っている。
「……会いたい……」
 遠い世界へ旅立ってしまった君を、もし追えたのなら、どんなに良いだろう。
「どうして、いないの……ねえ……どうして……っ!」
 今まで幾度となく垂れ流してきた嗚咽が、また僕の喉を詰まらせる。咳き込めば、今度は腹の底から押さえ込んでいた激情が込み上げてきた。それは言葉という形をとらないまま、喉を通過して舌の根元に乗る。耐えきれなくて、それをごぼりと吐き出した。
「っあぁ……!」
 僕の小さな叫びを掻き消すかのように、蝉時雨は僕の上に降り続ける。青い空の下、止まない雨は僕の全身を絶えず刺し続けていた。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei