短編集
2. ブラックサーカス ~とある安全なサーカス団 (1/1)


 レディースアンドジェントルメン――素敵な素敵なショーを始めようじゃないか。

***

 広い舞台の上でスポットライトが一点を照らす。その中央で、男は深くお辞儀をした。上げた顔は白塗りで、鼻や頬、目の周りに赤いペイントがしてある。彼はにっこりと微笑んだ。
「それでは皆様、良い夢を――
 突然、舞台が暗くなる。次の瞬間、観客席でバッと走り出す小さな姿があった。
 舞台に照明が入る。テントの天井近くに綱が一本張られていた。
「それではまず始めに儚き少女によります綱渡りを――
 観客が顔を輝かせて舞台に釘付けになっている間を、小さな影は駆けていく。軽やかに素早く、観客の中を潜り抜けていく。
 しばらくして、それは観客席の中にあるテントの柱の影に身を潜めた。小さく一息つき、フッと頬を緩める。
「これで、きっと」
 大きく膨らんだポケットに触れる。中から小銭がぶつかり合う音が聞こえた。くすりと笑う。
「みんなばかだよ、サーカスに気をとられて、お財布をとられたことに気づかないんだもの」
 でも、と少年は思う。
 このくらい、どうってことはない。誰もが、サーカスを見に来る余裕のあるお金持ちの人達なのだから。
「お次は猛獣使いレオンくん! 彼は猛獣と心を通わせそれらを自在に操ります!」
 明るいアナウンスが聞こえた、その時だった。
 柱の影にいた少年に、後ろから静かに手が伸びる。次の瞬間、バッと少年の口を塞いだ。
「!」
 声にならない驚愕で瞠目した少年に更に手が伸びる。少年の体は抱えられて宙に浮いた。少年の体が強張る。
 歓声が止まない中、少年の体は、誰にも気付かれず、静かにどこかへ連れ去られた。

***

 目まぐるしかった。階段をいくつ上がり、下がり、角を曲がっただろう。しばらく後、少年を担いだ誰かは、ある部屋の前に辿り着いた。
 ギシ、と木製のボロボロな扉が押し開かれる。暗い部屋が現れた。何の部屋なのかわからない程に暗い。
「全く」
 少年を担いだ誰かが呟いた。と、同時に少年を放る。
「っ……!」
 ドサと床に投げ出された少年は悲鳴を押し殺し、痛みに耐えた。勢いよく投げ出されたのに加えて、床が固い。涙のにじむ目で上を見上げる。
「我らがサーカスを悪事で汚そうとは、度胸も困り物だな」
 そばに立っている人が言う。腕を組んでこちらを見下ろすその人は男で、先程自分を床に放り投げた張本人であることはわかった。
 そこまでは良い。もう一つのことに気づき、少年はごくりと唾を呑んだ。
 ズリ、ズリ、ズリ。
 何かが床を這う音が、背後から聞こえてくる。それも、たくさん。
 ズリ、ズリ、ズリ、ズリ、ズリ、ズリ。
 そっと後ろを振り返る。いくつもの目が自分へと向けられていた。ギラリと輝くそれは、獲物を狙う光で。
 ズリ、とそれらは長い体を床に這わせる。喘息のような、乾いた、シューシューという音を出しながらそれらは下を出し入れした。
「ひっ……!」
 少年が顔を歪ませる。男はにやりと楽しげに笑った。

***

「次はお待ちかね、ナイフ投げの名人イブルによる美女射抜き! と言っても彼は女の血が嫌いなんでね、すれすれを狙いますよ」
 紹介を終えると同時に舞台の照明がナイフ投げのセットを照らす。壁に張り付けられた女性と、ナイフを構えた背の高い男性が堂々とした様子で観客の視線を集める。
 これは良い。今回のお客もなかなか良い食いつきようだ。
 にたりと笑うピエロの顔は、元々ペイントされていた笑顔が崩れて異様なものになっていた。それを見、同じ舞台裏で次のショーの準備をしていた女性が顔をしかめる。
「ピエロのペイントをして変な笑いをしないでください、座長。気持ち悪いです」
「そうはっきり言ってくれるなよおレディ・ドール。照れるだろ?」
「気持ち悪いです」
 あはあはと笑うピエロに、女性はフイッと顔を背けた。ピエロは、だってさあ、と続ける。
「観客の方々がこんなにも、我を忘れて見入ってくれているんだよ? 嬉しいじゃん? ――だからね」
 くすり、とピエロは口の端を釣り上げた。
「ぼくは、ぼくらのサーカスを、観客の方々の幸せをぶち壊そうとする邪魔者を、徹底的に排除するんだ」
 ピエロの見守る先で、ナイフ使いがナイフを振り上げる。そして、それを勢いよく女性へと投げた。

***

 サーカスが盛り上がる中、サングラスの男達はひっそりと頷き合った。数人が走り去り、残った数人は、手にした紐をゆっくりと手放す。その紐の先にいたのは大型の犬だった。凛々しい顔に、筋肉質な足。眼光は鋭く、狩りに飢えている。
「さあ、行け」
 犬の首輪に手を伸ばしながら男の一人が言う。
「あのガキを殺せ。邪魔なものはとことん壊せ。それが観客であろうと構わん」
 犬の首輪から紐がほどかれる。すぐさま走り出したその姿に、男達はにたりと笑み合った。
 その瞬間。
「ナイフ投げ、お楽しみいただけましたでしょうか。わたくしめはもう恐ろしくて恐ろしくてしょんべんちびっちゃいました。おっとレディには失礼。――さて、ここまでは茶番。それでは本番と行きますかね」
 ピエロがキンキンと響く声で言う。そして、びしりと指を観客席に向けた。
「そこの旦那様、いかがでしょう、わたくしめらのサーカスを体験してみませんか?」
 ピエロが指差す先を、観客の目が追う。男達は現状を飲み込めないまましばらく佇んでいた。ピエロはサングラスの男達を見、さらに続ける。
「こちらが用意した美女ばかりではつまらないでしょう。ここは一興、一般の方にも参加していただきましょうか――まずはナイフ投げを」
 ピエロがいつもの笑顔で言う。観客からは拍手が沸き起こった。戸惑う男達に、ピエロは笑顔を絶やさない。
「レディースアンドジェントルメン――素敵な素敵なショーを始めようじゃありませんか!」

***

 タッタッと走る音が舞台裏の廊下に響く。サングラスをかけ直しつつ、男はとある場所で足を止めた。
 鉄製の梯子が天井へと延びている。これを登れば舞台の真上へ行けるらしいことは察しがついた。天井から探せば、どんなに小さな標的も探し出せるはず。
 それに、天井からなら、いかなる音がしようと、誰にも気付かれない。誰にも。
 たとえそれが銃声だとしても――腰から銃を抜き出しつつ、男は梯子に手をかけた。
 舞台裏というのに、幸い誰もいなかった。来る気配もない。まあ、誰かが来たとしても撃ち抜くだけ。
 梯子を静かに登っていく。梯子は真っ直ぐに、天井へと続いていた。黙々と登り続ける。
 サーカスのテントの天井は高い。その分登りきるのも大変で、ようやく天井についた頃には息が切れていた。
 天井には格子状の床があって、格子の隙間から舞台を見下ろせるようになっていた。観客席も十分見える。銃を持ち直し、改めて下を覗き込んだ。
 観客は舞台に見入っている。今、ちょうど何かが始まるようだ。ナイフ使いらが準備をしている。
 ニイ、と笑い、男は鉄格子に四つん這いになりながら観客へと目を走らせた。ふと片足が触られたような感覚がしたが、気のせいだろう。そう思った矢先だった。
 ――ガゴン!
 男が手をついていた格子部分が外れた。ゆっくりと前のめりになり、頭が鉄格子より下になり――男は天井から落下していった。
「うわああああああ!」
 絶叫はテントの広さに敵わず、誰にも届かないまま消えていく。
 男の体が宙へ投げ出された直後、足首がグンと引っ張られた。体が再び宙に浮く。バンジージャンプのように何度かリバウンドし、やがて収まった。目の前には逆さまの観客席、そして真下には固そうな床。
「おや、もう一つ余興ですねえ」
 ピエロの楽しそうな声が聞こえたのはその時だ。
「さてさてあちらでは、空中ブランコの体験と参りましょう! とは言ってもいきなりは危険、というわけで、お客様には命綱をつけていただきました! 新版空中ブランコをどうぞお楽しみあれ!」
 観客が沸き立つ。男は頭にたまっていく血と頭から下がっていく血の気を感じていた。

***

 舞台の上を見つつ、観客席の後ろで男は何度目かの舌打ちをした。美女の代わりにハリボテの壁に張り付けられた男、空中ブランコの高さで逆さに宙吊りにされている男、無様だ。
 なんて無様で滑稽なことか。
「ったく、こんなんであのくそガキを捕まえて殺せってのは無茶苦茶だ……一旦作戦を練り直すか」
 舞台から背を向け歩き出し、しかし男はふと足を止めた。ふ、と口元に笑みを浮かべる。
「……いや、まだ早い。まだあいつがいる」
 わっと歓声が上がった。何かショーが始まるのだろう。男は再び舞台を見、無様な仲間の姿を漫然と眺めた。

***

 暗闇の中、動くものがあった。鼻を地面につけ、静かに両目をたぎらせながら、黒い体毛のそれは臭いの跡を追っていく。牙から唾液が流れ出る。グル、と低く唸り、それは四つ足を進ませていく。
 やがてとあるドアの前に足を止めた。古びた、人間サイズのドアは、四つ足の彼には開けられない。
 しかし臭いはここからする。スン、と鼻をドアに擦り付けた。
 見つけ次第殺す。居場所を特定するので精一杯の時は一旦戻って報告する。その選択が賢い彼にはできた。
 くるり、ときびすを返しもと来た道を戻る。と、数歩も歩まないうちに彼は足を止めた。ギイ、と音が聞こえたのだ。
 同時に漂ってくる目標物の臭い。あのドアが開いたのだと知る。それなら戻る必要はない。
 今すぐ飛びかかって首を噛みきるだけ。
 ドアへと身を翻す。そこに立っていたのは知らない人間だった。しかしどうでも良い。目標物が近くにあるのはわかっている。
 邪魔なものは壊せば良い。
 目の前の人間にダッと飛びかかって行く。体に爪を立て、押し倒した。その首筋に牙を向け――突如感じた首筋の痛みに跳ね上がった。キャン、と情けなく鳴き、転げ回る。何かが首に刺さっている。熱い。
「何かと思ったら犬か」
 押し倒した人間がやれやれとばかりに体を起こす。
「全く、今日はたいそうなお客様だな。人間のガキと犬か。ま」
 一息つき、人間はにたりと笑った。
「我らのサーカスを邪魔するやつは人間であろうとなかろうと容赦はしない」
 首筋の熱さが全身に広がっていく。動けなくなってくる。震える四つ足を床につき、喘いだ。くらくらしてくる。
「御愁傷様」
 人間が呆れたように言う。
「ショーを邪魔しようとしたからにはそれなりの見返りを、な」
 人間が笑みを深める。もう視界があやふやだ。そっと目を閉じる。全身が熱い。限界だった。

***

 犬が目を閉じたのを見、蛇使いは腕を高く上げた。
「さてぇ」
 高らかに告げる。
「猛毒蛇と獰猛犬、どちらが勝つでしょうねぇ? ……猛毒って言っても、睡眠薬だけど」
 そして、視線を犬から、部屋の中で座り込んで震えていた少年に向ける。
「あ……」
 体と同様、声をも震わせる少年に、やれやれと肩をすくませる。
「君はどうしようかな」
「え、あ……」
「まともに言葉も話せないんじゃあどうしようも……」
 一人呟き、あ、と両手の平をポンと合わせる。
「座長に訊いてみよう」
 そうだそれが良い、また一人呟き、蛇使いは少年に手を差し伸べた。
「来い」
 抗う術も度胸も思考もない。少年はこくりと頷き、自分の手を彼へと伸ばした。

***

 先程担がれた道のりを、今度は手を引かれながら歩く。思った以上に息が切れるのは、蛇使いの足が長くて速かったせいだ。
――さーああと三本! 気まぐれナイフ使いイブルはお客様を傷つけずに終わらせられますかねえ」
 煽るような説明文句が聞こえてくるようになったのは、しばらくしてからだ。連れていかれる先に、カーテンの隙間から漏れる光を見つける。声はその奥から聞こえた。
 蛇使いはカーテンを僅かに開けた。一気に光が差してくる。少年はぎゅっと目を閉じた。
 わあっという歓声が聞こえた。何かが何かに刺さる音も。
「おお、見事! イブルは見事にお客さんの服だけを裂きましたねーおかげでお客さんは気絶寸前だー!」
 どっと笑い声が響く。少年はそっと目を開け――あ、と声を漏らした。
「何だ?」
「あの男の人、確か――
 舞台ではハリボテの壁に縛り付けられたままぐったりしている半裸の男がいた。照明が上方へと動くのにつれ、少年も目をそちらへ向ける。
「続きまして――
 男が逆さ釣りになっている。片足にロープがくくりつけられていて、男はというとぐったりとしていた。
 男を挟むように二つの空中ブランコがある。そこに、それぞれ小柄な子供が乗った。
「フレディとマクロムによります新版空中ブランコを!」
 片方のブランコが大きく振れる。その上で足を引っ掻けた子供がブランコの上で手を伸ばし、男を掴んだ。そのまま振り子のように天井近くまで振り上がり、そして振り子のように落下していく――男を掴んだまま。そして普段の演技のように、男をもう片方のブランコの乗り手へ放り投げた。体勢を崩した男の手をもう片方のブランコ乗りがしっかりと掴む。また、同じことを繰り返す。
 観客が沸く。それは明らかに、事態を楽しんでいるもの。
 男はひきつった顔で振り子運動の中心にいた。サングラスが床へと落ちてカシャンと割れる。
 少年はぼんやりと舞台を見上げた。
「人間なんてこんなもの」
 蛇使いが笑う。
「自分じゃなければ何もかもが面白い」
 例えば、と続ける。
「盗まれる方が馬鹿だ、なんて思ってほくそ笑んだり、ね」
 ハッと少年は蛇使いを見上げた。
 その時。
 フッと舞台からの光が遮られ、舞台が見えなくなった。誰かが自分と舞台の間に立ちふさがったのだと気付く。彼は握りこぶしを少年の目の高さに作っていた。
「おやおや」
 ペイントされた笑顔をそのままに、彼は握っていたこぶしをほどいた。カラン、と何かが落ちる。
 銃弾だった。
「こんな物騒なものを観客席から向けてくるなんてねえ」
 にやりとピエロ顔が笑った、ように見えた。もともと笑っている顔がさらに歪む。知らずのうちに、少年は体を恐怖に震わせた。

***

「チッ」
 観客席の後ろでサングラスの男は舌打ちした。唯一の頼りだった獰猛な犬は帰ってこない。目標物が見つからない上、仲間は見せ物にされている。どれだけできない奴らなんだ、ガキ一人殺せないなんて。
 八つ当たり気味に舞台を見回す。と、舞台袖に目が止まった。
 ああ、と感嘆する。
 あんなところにいやがった。
 長い銃身のそれを取りだし、カチャリ、と銃口をそちらに――暗い舞台袖にかろうじて見える少年に向ける。
 見つけた。
 男は迷わず引き金を引いた。
 目標物が暗くて見えない舞台袖にいたためはっきりとは見届けられなかった。しかし自信はあった。
 確実に殺した。
 にやりと笑みを浮かべた、その時。
――イケナイ子だ」
 声が後ろから聞こえた。カチャリ、と先程聞いた音が側頭部に向けられる。
「違法物の取り引きをしていた上に、見られたからといってスリの坊やを殺そうとするとは……それをこのテントでやろうとしなければ、こんなことにはならなかったのですがねえ、お客様?」
 この声が舞台上にいたはずのピエロのものであること、そして自分の銃を構えていた手が、今、何も持っていないことに気付いた時、男は初めて恐怖に震えた。

***

 かのサーカスのテントから出てきた観客は、口々に言った。
「噂通り、普通のサーカスにはない、スリリングな内容だった」
「面白かった」
 そして言うのだ。
「こんなに安全なサーカスはない」
 と。
 そのサーカスは、奇想天外な内容にも関わらず、事故も事件も起きず、いかなる情勢不安定な地域に行こうと何物もショーを妨げないことで有名なのである。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei