短編集
6. 太陽と少年 (1/1)


 北風と太陽っていうお話を知っているかい?
 私の手を握って、おじいちゃんは言った。見上げた私は、まだ幼くて、散歩はいつもおじいちゃんと行っていたけど、こんな話をするのは初めてだった。
 なあに? どんなおはなし?
 公園の中は木がたくさん植えられていて、日陰がいっぱいあった。夏に近付く日差しはほとんどが遮られて、少し涼しかった。風もなんだか涼しくて、でもおじいちゃんの手が温かかったのはよく覚えている。
 なあ、レイ。
 おじいちゃんが優しく微笑んでくれる。それが嬉しくて、私はおじいちゃんとつないだ手を大きく振った。
 なあに?
 優しい大人になりなさい。暖かい光でみんなの心のマントを脱がせられるように。
 おじいちゃんが言っている意味が、私には難しくてわからなかった。けど、私は大きく頷いたんだ。
 わかった! おじいちゃんみたいに、やさしいおとなになる!
 おじいちゃんが笑ってくれるのが、とても嬉しかったから――

***

「レイ!」
 布団を引きはがしてお母さんが叫んでくる。
「起きなさい! 何時だと思ってるの!」
 わかってる、そう思いながら私ははがされた布団にしがみついた。
「もう、少し……」
「だーめ! 遅刻するよ! ほら、起きた起きた!」
「うー……」
「うー、じゃない! 高校生にもなって何してんの!」
 とっても眠いし、布団の中は天国だが、仕方がない、起きねば。そう思い体を起こして――私は再び布団にダイブした。
「こら――っ!」
 お母さんにさらに大きな声を出されてしまうのも仕方がないほど、私は朝が苦手だ。何回も起こしてくれるお母さんには申し訳ないが、こればかりはしょうがない。おかげで遅刻しかけたり、遅刻したり。散々だ。
 ようやく体を完全に起こした私は、数分ベットの上でぼんやりしてからもそもそと制服に着替えた。階段を下りて洗面所に向かい、髪を整え顔を洗って――ここまでで二十分。そこでようやく時計を見て遅刻を予感した私は、朝食の食パン一枚を口にほおばり、すぐに家を飛び出した。
 両脇の住宅から子供が出てくる様子は全くない。出勤のお父さんお母さんらがちらほらといるくらい。これは、完全に遅刻のパターンだ。住宅街のど真ん中を突っ走っているのに、他の登校生徒を見ないなんて。
 布団が悪いんだ、と私は思う。
 何もかも、あいつがもふもふしてふわふわしてあったかくて私を離してくれないから!
「布団のばかあぁっ!」
 叫びながら走る高校生なんて珍百景ではないか。テレビに映るかも、なんてくだらない妄想さえもできないほどの全速力で走っていると、やがて道の端に公園が見えてきた。ちょっと大きめの、自然あふれる公園。
 幼い頃、よくおじいちゃんと散歩した公園だ。
 おじいちゃんは昨年死んだ。胃がんだった。日本人によくある原因。平凡な最期。でも、おじいちゃんはいつも笑ってた。
 笑ってたら、痛いのがなくなるんだって、そう言って、いつもずっと笑ってた。病院で急変して、誰もそばにいれないままあっという間に死んじゃったけど、死に際も笑っていたんだろうか。私にはわからない。
 公園を横目にしながら走る。学校までもうすぐ。あと五分もいらない。私はノンストップで走り抜ける――つもりだった。
 ふと公園に目を向けた私は、思わず足を止めた。
「……あ」
 砂場の奥、さびれたブランコに人が座っていた。幼児じゃない。
「……学ランじゃん」
 真っ黒な男の子が、ブランコに座って下を向いていた。私の出身中学校の制服なことは一目でわかった。ここらへんで学ランなんて、だいぶ限られる。
 まさかサボリ? そう思ったら、なんだかむかついてきた。
 私は遅刻寸前でこんなに頑張って走ってるのに、あいつはのんびりとブランコですか。
「……よし」
 ここでほっとかないのが私の美点。
 公園に入ると懐かしい光景に包まれた。そういえばしばらくここに来てなかったな、と思う。ブランコに真っ直ぐ歩み寄ると、男の子はこちらに気付いて顔を上げた。その子の前に仁王立ちして、私は腕を組んだ。
「ちょっと、ここで何してんの」
「……あんた何」
 何、何って何だろ。思いがけない言葉に、少し考えて、答えを出す。
「人間」
「……あんた馬鹿だな」
「初対面で馬鹿って何、馬鹿って!」
「馬鹿に馬鹿言って何が悪い」
「くっ……何で私がクラスで下から二番目の成績だって知ってんのよ」
 千里眼か。そう思った私に向かって、男の子は呆れた目をした。
「……可哀想に」
「同情するな! いや、同情してもらって嬉しいけど! でも同情するな!」
 何で涙目で応酬してるんだ、私。
 そんなことより、と私は本題を切り出す。男の子は相変わらず白けた表情だ。
「あんた、学校は?」
「さあ」
「さあ、って」
「あんたこそ学校あんだろ」
「そりゃあ――ああああああっ!」
 慌てて腕時計を見る。再び絶叫。
「八時五十七分――!」
 ちなみに始業は八時半です。
「一時間目始まってるな、残念でーした」
「何かよくわかんないけどゲームオーバーみたいな言い方やめてくれる?」
 男の子はふいっとそっぽを向いた。
「だってゲームオーバーじゃん」
「く……そ、そうだ、そもそも原因はあんたなんだからねっ!」
 苦し紛れに指させば、男の子は心外だと言わんばかりに眉を寄せた。
「はあっ?」
「あんたがこんなとこでのんびりしてるから!」
「かんけーないだろ、てめえとは!」
「うっわ、あんたからてめえに昇格した! 喜びたいけど喜べない!」
「喜ぶ要素なんだそこ」
 うっわめっちゃ引いた表情された。
 私はごほんとわざとらしく咳払いして、男の子を改めて見た。にきびがちょっとある。青春真っ盛りなんだろう、学ランの下から真っ赤なアンダーが見えた。アンダーは白か黒かベージュと決められているのに。
「で? あんたはなんでここにいるの?」
 私が訊いた途端、男の子の表情が強ばる。嫌な話題に触れられたって顔だ。
「……かんけーないじゃん」
「私を遅刻確定にさせといて関係ないなんて無責任な」
「あんたが勝手に遅刻したんだろ」
 ごもっともです。深く頷く。
「……じゃなかった、ほら、関係ないからこそ言えることもあるじゃない。ね? 言ってみたら?」
 公園に一人ぽつんとブランコなんて、心に悩みを抱えてますって証言してるようなものじゃん。そう思って、顔を覗き込むつもりで男の子の前にしゃがみ込んだ。ね、と言いながら男の子を見上げる。
 はずだった。
「るせーよ!」
 ガツン!
 あれ、目の前がちかちかする。何か今さっき少年の足が私の顔面を直撃したように見えたんですが、見えちゃったんですが、見えたんですけどぉ?!
 顔面を押さえてうずくまる私、完全ノックアウト。
「あ」
――ガツって、ガツっていったよ、ガツって! ねえ!」
 ようやく開けてきた視界をフルに使って男の子を睨み上げれば、彼はブランコから立ち上がってこちらを見てました。あ、やっちまった、みたいな顔して見下ろしてきました。
「……あ」
「あ、じゃない!」
「え、いや、蹴るつもりは……」
「乙女の顔に何してくれてんの!」
 わりと本気で怒鳴ったら、男の子はやばいことがばれたみたいな顔のまま私から遠ざかって、
「わ、わりい!」
 捨て台詞みたいに身を翻しながら言って、そのまま走り去っていこうとした。
 しかし、私は見た。しかと見た。
 男の子の足が上手いこともつれて、両手広げてばったりと地面に倒れ込んだ一部始終を。顔を見事に打ち付けてましたけど、大丈夫でしょうかね。見守っている先で、男の子はゆっくりと上体を起こした。
「……あ」
「あ、じゃねえよ!」
 鼻を押さえながら怒鳴られても怖さ半減ですよ、お兄さん。
「くっそ……」
「トイレならこの公園の奥に……」
「そうじゃねえよ!」
 わーあ全力で怒られちゃいました。冗談だったのにな。そんな風に思えるくらい、私の顔に痛みはだいぶひいていた。痛みがなくなった分、男の子に気遣いをする余裕も出てくる。私はハイハイをして男の子のところまで行って、大丈夫かと声をかけた。
「どこか痛めた?」
「どこも」
「ケータイ会社じゃなくて」
「……一度あんたの頭の中調べてみたい」
「私の頭はいたって正常だから。じゃなくて、傷とかできてない? 体の表面以外に、心とか、心とか、心とか」
「……心に」
「そりゃご愁傷様だあ! ざーんねーんでーしたーあ」
「だったら言わせんな!」
 どうやら大きな怪我もないようで、男の子は自分で立ち上がった。くそ、とか、なんでおれが、とか、はずい、とかぶつぶつ言ってたけど。思春期の子は大変だなあ、なんて思う。
「……なんなんだよあんた」
 男の子は私を見下ろして、なぜか顔を腕で隠しながら聞いてきた。耳赤いし、頬も赤みがあるし、そうか、恥ずかしいのか、恥ずかしがってるのか、めっちゃ萌えるんですけどそのポーズ! なんて思ってガン見してたらものすごく不機嫌な顔をされました。
「……きもい」
「そりゃどーも」
 どんな顔をしてたのか自分ではわからないけど、言われ慣れてるからね、平気平気! 私はいたって正常です! そう言ってついでにテヘってポーズを決めたら、男の子は呆れた顔をして、私の横をすり抜けていった。スルーって何気一番傷付くなあって思ってうらめしげにその背中を目で追ったら、彼はまたブランコに座っていて、ため息を大きくついて、両膝に両肘を乗せていた。
「……なあ」
「ん?」
 地面に四つん這いになったまま、私は男の子の方に向き直った。男の子は真面目な顔つきで、でもどこか寂しげに自分の拳を見詰めている。その両手に力がこもるのを、私は見ていた。
「……親は勉強しろってうるさくて、センコーは受験がどうのこうのって言ってくる。でも、そんなの、何の意味があるんだろうって、なんか思っちゃってさ」
 センコーって先生のことか、古い言い方をするなあ、って思いながら男の子の話を黙って聞く。
「どんなに頑張ったってわかんないものはわかんないのに、勉強が足りないから理解できないんだって言われて、顔を合わせるたびに小言言ってきて……学校行ってもセンコーが高校受験とか言ってるし、勉強して一休みしてる時に限って勉強しろって怒鳴ってくるし、もう、どこにも逃げ場がなくて……」
 私の出身中学は、年々厳しくなってきているらしかった。私立高校の受験をさせて、学校のイメ-ジを上げたいんだろう。不良ばかり生み出してきた学校だったし、周りには優秀な生徒を排出する私立中学校ばかりだから。
「……で?」
 私はあえていつも通りの声で言った。案の定男の子は意外そうにこちらを見た。同情されたかったことが一目でわかる。
「君は一体何がしたいの?」
「え……」
「何もしたいことがないのに、現状に文句言って、それで? 自分の利益は何」
「利益……?」
「学校が嫌なら辞めればいいじゃん。親が嫌なら家出すればいいし。でも、そうしないんでしょ? それって中途半端じゃないかなあ」
 文句を言うのなんて、誰でもできる。不満を言って現状が変わるならそうすればいい。でも、実際は何も変わらない。むしろ現状が嫌になって、気力がなくなって、生きた心地さえしなくなってくる。
 私はいつの間にか、地面に座り込んで砂いじりを始めていた。円を何度も何度も描く。
「君の話には、君が親や先生に反論した形跡が見られないよ。抗ってみた? 言い返してみた? こんなにやったんだって、それでもわかんないんだって証拠を突きつけて言ってみた? わからないのは確かに君の実力かもだけど、それをどうしようもないこととして受け入れちゃうのは違うし、同じことで、どうしようもない、どうせ抗えないからって親や先生の言うことを黙って聞いてストレスためるのは変だよ」
 言うと、男の子は急に黙り込んだ。不思議になって見上げてみると、男の子と目が合う。なんだ、話を聞いてないわけじゃなかったんだ、と思っていたら、男の子が呆然としたように呟いてきた。
「……単なる馬鹿じゃなかったんだ」
「馬鹿言うな年上に向かって!」
「え」
「……え?」
 男の子が驚いたように私を見た。私の顔を見て、下まで眺めて、また顔を見て。何だかむっとした。
「……すっごい失礼なことしてない?」
「いや……え、嘘、年上?」
「うん。私高校生だもん」
 ほら、と制服の胸のところを引っ張って見せる。地元の高校の制服も把握してないって、どういうことだ。
 男の子は私の制服を見てもぴんと来ないようで、目を丸くしていた。
「……馬鹿すぎて同い年か年下だと思った」
「だから馬鹿言うな! ていうか何でわからなかったの? この制服、どう見たって高校でしょ?」
 男の子は気まずげに視線を逸らして、だって、と唇を尖らせた。お、可愛い。
「……高校とか、知らねーし」
「知ってろよあんたの進路の候補の一つだろ!」
「だって」
「だって何さ」
「……だって、興味ないし」
「興味持て! もう……そんなんじゃあ目標も何も」
 そこまで言って、私の脳に電流が走った――いや、確かに常に電気は流れているんだけど、例えね、例え。漫画でよくあるじゃん。ピーンていうか、ピキューンていうか。
「びびっときた!」
「……は?」
 呆れる男の子に、私はびしっと指を差した。四つん這いからのそれだから格好は最悪だけど、緊急事態だし気にしない。
「そうやって目標をはっきり定めないから、ぐだぐだすんのよ! 行きたい高校を、まず決めてごらんなさいよ! そのためにはあちこちの高校のこと調べなきゃだけど……ここに行こうって決めたら、きっと何か変わるから!」
 やばい今自分すっごいキマってる! 今の自分後光が差してるよきっと! なんて思って恍惚としている私の前で、少年は呟いた。
「……漠然としすぎて意味わかんねえ。きっと何か変わるって何がどう変わるんだよ」
 う、と言葉に詰まる。
「き……きっと、何かが!」
「復唱してどうする」
「き、きっと……や、やってみなきゃわからないじゃん! やって見てよ!」
「はあ? 無茶振りかよ!」
「だってえ……やったことないもん」
「やったことないことを提案してきたのかよ、何か……尊敬しかけて損した」
「え、今なんて言った? ソンケイって言った?!」
「言ってねえよ馬鹿」
「馬鹿言うな!」
 くだらねえ、と男の子は言ってブランコから立ち上がった。立ち上がる時に、足を振り上げて勢いよく立ち上がってるのを見て、私は遠い目になる。
 あれで、私の顔面を蹴っ飛ばしたんだな。
 遠い目になっている間に男の子はすたすたと私から遠ざかっていって……あれ、と思ってようやく私は男の子の行方を目で追った。彼は公園から出ようとしていた。帰るのか、学校へ行くのか――いずれも、男の子が嫌がっていたことなのに。
「どこ行くの?」
 私は声をかけていた。
 男の子は振り返って、ちょっとふてくされたような顔をした。
「……ガッコ!」
 なんだそのガキンチョみたいな言い方は。でも私は微笑んでしまった。それは、おかしかったからじゃなくて。
「……そっか」
 そっか、学校に行くんだ。
「頑張って」
 男の子に聞こえない声で言った。でも男の子はびっくりしたみたいに目を大きくして私を見てたから、聞こえたのかもしれない。
――なあ」
「ん?」
「……あ」
「あ?」
 おお、顔を真っ赤にして口ごもっていらっしゃる。なんとかわゆし。やべえ写メりたい。くっそ可愛いなあ、おい。なんて雰囲気ぶち壊しの感想を抱く私に、何も知らない少年はもごもごとしていた。可愛い。――じゃなくて。
「何?」
「あ……あ……」
 蟻? 雨? あく抜き? アメフラシ? 「あ」から始まる言葉なんてたくさんある。「あ」だけじゃ何も伝わってこないぞ少年。
 しばらくもじもじもぞもぞもごもごとしていた男の子は、一度口を閉じてまた開いて、言った。
「……悪かったな!」
 男の子はそう言って、今度こそ言い捨てて、身を翻して公園から飛び出して走って行った。
 学校がある方角へ。
「あ……れ、そう、うん、まあ……」
 悪かったと言われても返しようがない。しかも「あ」から始まってない。何言おうとしてたんだ彼は。
 急に静かになってしまった。私はひとりぼっちの公園で地面に寝そべった。空が青い。雲が白い。うん、幸せ。幸せ。もうすぐ昼だからか、おなかが空いてきた。ああ、今日の給食はなんだろう。
 今日の、給食、は……私の思考はそこでストップした。
「給食……学校……がっこう、がっこ……うああああああっ!」
 飛び起きて絶叫。腕時計を見て撃沈。
 忘れてた、完全に忘れてた。もう二時間目始まってる。遅刻、ていうか授業サボっちゃったよ。サボリだよ、サボリ。遅刻魔の私がサボリなんて、もう人生終わった。ゲームオーバーくらった。親に顔向けできない。
 せめて遅刻だけにしようと頑張って一時間目が終わる前に着くようにしていたのにっ! 私の長年の努力が!
「うわああああっ! マジ迷惑! マジ悪いよあんたあああっ!」
 いなくなった男の子へ絶叫。もう届かないだろうが。いや届く。つか届け。聞き入れろ私の絶望を!
「嘘だああああ――っ!」
 私の渾身の絶叫を笑うかのように、上空では太陽がさんさんと輝いていた。


▽解説

前話|[小説一覧に戻る]|次話

Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei