短編集
7. 彼女の片手と僕の両手 (1/1)


 彼女には片手がない。
 なぜかは知らない。興味がなかった。僕はただ、貼り出された通りの教室に入って、指定された通りの席に座ってぼうっとしていた。周りは春の陽気のように新しいクラスのメンバーが話していて、友達の少ない(いないわけではない)僕はただただぼうっとしていた。
 彼女が教室に入ってきた瞬間、教室の中は一気に静まりかえった。
 入り口で一瞬立ちすくみ――何事もなかったかのように彼女は教室の中に入ってきた。長い髪に隠れて表情は見えない。ただ、一目見て、彼女の体が普通でないことはわかった。ブレザーの片方の袖がだらりと下がっていたからだ。
 しんとした教室の中で、そういう反応は慣れている、彼女はそう言いたげな雰囲気をまとっていた。何だか申し訳がなかった。両手がある僕は彼女に反応してはいけないだろうし、見てはいけない気がした。気にしてしまってもいけないし、強引にでも彼女を一人の普通の人間と捉えなければいけない気がした。だから、僕は彼女を視界にいれないように下を向いていた。だから気付かなかった。
 教室が再びざわめき始めた時、僕は隣に誰かが座っていることに気がついた。誰だろう、いつの間に。そう思って、顔を上げて、そちらを見てしまった。
 彼女が、そこにいた。
 長袖のブレザーの片方が鞄の中から筆記具を取り出していた。もう片方の袖は、ぺちゃんこに垂れていた。肘から上と胸で鞄を押さえて、慣れたように道具を取り出していた彼女は、ふとこちらを、見た。
 目が合った。
 どうしよう。そうとしか思えなかった。他の人なら、曖昧に笑って、名前を聞いたり、どこの中学校出身かなどと聞いたりできたはずだった。
 僕の視界の中央で、彼女は丸い目で僕を見つめていた。僕も呆然と彼女を見つめていた。
 何秒経っただろう、しばらくそんな気まずい沈黙が二人の間に流れた時だった。
 僕の視界の中心で、唇が動いたのが見えた。
「よろしくね」
 彼女は、そう言って、微笑んだ。普通の、綺麗な笑みだった。まつげにふちどられた目は黒くて丸くてぱっちりとしていて、唇は薄めで健康そうな赤だった。ニキビのない綺麗な白い肌。美人だった。
 僕はただ頷いた。何も言えなかった。びっくりした。片手のない彼女の笑みが、普通の人と同じだったから。そうして気付いた。
 両手がある僕は、片手がないというだけで、彼女に対してずいぶんな勘違いをしていたようだ。
 恥ずかしさで真っ赤になる顔で、僕はこくこくと頷いた。彼女は一度礼をした後、何事もなかったかのように正面に向き直った。
 それが、彼女と初めて会った入学式直前だった。

***

 彼女は意外にも普通の人間だった。むしろ他の人より行動的だった。授業の時だって眠ったり携帯電話を使ったり他の人と話したりしている人がいる教室の中、一人だけ手を挙げて発言していたし、休憩時間だって器用に机の中を探って次の授業の準備をしていた。
 体育の時間も、片手で器用にバスケットボールを操っていた。両手がある僕は片手しかない彼女からボールを奪えなかった。不用意に近付いたら彼女を倒して怪我させてしまいそうで、怖かった。他の女子からは簡単にボールを取るのに彼女には手を伸ばすことさえ躊躇ってしまった。そんな僕に、非難の声はなかった。誰もが――女子までもが、彼女との物理的距離に、そして精神的距離に戸惑っていた。
 そんな教室の中で、彼女はいつも穏やかだった。
「柏原、箒は? ないのか? じゃあ机運びを――
 掃除の時間、そう言った後、彼女が机を抱えられないことに気付いた教師が愕然とする前で、彼女は片手で椅子だけを運んで机を僕に頼んだ。彼女は誰のどんな失言にも反応しなかった。慣れている、そう言いたげな雰囲気で自分にできる範囲のことをしていた。両手のある僕は申し訳なかった。どうしても、彼女を特別扱いせずにはいられなかった。
 ただ、片手がないというだけで。
 そんな彼女が困ったような顔をしたのは、物理の授業の時だった。
 物理の授業で出てきたある単語に、心底困ったように眉を寄せたのだ。
「磁場の中で電流を流すと、力が発生する。これの向きが、よく覚えさせられたんじゃないかな」
 理科の先生はそう言って、自分の左手を生徒達に見せた。
「左手の法則というやつだ。覚えているだろう。こう、親指を上に、人差し指を前に、中指を右側に」
 その時、視界の隅でガタリと椅子が鳴った。うとうとしていた僕ははっとして、隣を窺い見た。彼女が、俯いて、膝の上の自分の右手を見ていた。
 そう、彼女には左手がない。
 教師は彼女の様子に気付くことなく左手を使って話を進めていく。みんなは彼女を気にしつつ、左手をあらゆる方向から見て理解に努めていた。目で見れば、体で理解すれば、簡単に理解できる話。しかし、彼女は。
 僕はやはり、彼女を特別扱いせずにはいられなかった。
 椅子を横にスライドさせた。ガタリ、と僕の椅子が鳴った。隣で彼女は驚いたように身をすくませた。そんな彼女に、僕は左手を差し出した。
「見る?」
 一言呟いた、ただそれだけだった。
 なのに、彼女は、驚いたように目を丸くした後、笑ったのだ。
「ありがとう」
 そう言って、嬉しそうに笑った。普通の人より綺麗な、感情のこもった笑顔だった。

***

 一年中席替えはなかった。クラス担任が面倒臭がって、やるなら自分達でやれと言った。無論僕たちにそんな面倒なことをする気力はなかった。だから一年中、彼女と僕は隣だった。
 一年経つ間に、彼女とはよく話すようになった。よく話すと言っても、授業でわからないことを聞いたり、彼女の作業を手伝ったり、そのくらいだった。
 その頃には彼女からバスケットボールを奪えるようになった。他の男子も女子も、彼女とボールを取り合えるようになった。球技大会の優勝の時はみんなで肩を抱き合って喜んだ。みんなと彼女との物理的距離も精神的距離もだいぶ近付いていた。
 冬になって部活が盛りを終えると、期末テストに向けて勉強する日々になった。僕がうんうん唸っている横で、彼女は黙々と問題集と向き合っていた。ただ、たまに、声をかけられることがある。
「ねえ、芹沢くん、左手見せて」
 そう言う時の彼女はちょっと恥ずかしげだった。僕はそれを見ないふりをして、左手の法則を見せた。彼女は小さくありがとうといって、僕の左手をじっと見つめていた。
 期末テストで左手の法則は出なかった。

***

 冬休みが終わってみんなが登校してくる。僕も、彼女も登校してきた。長い休みの後は、誰だってぐったりとする。それはクラスの人も、教師も、僕もそうだった。でも彼女は違って、休み前と変わらず黙々と授業に取り組んで積極的に手を挙げていた。
 彼女は普通の人とちょっと違った。でもそれは片手がないからではなかった。
 終了式の後、クラスで写真を撮った。春になればまた違うメンバーのクラスになる。みんな良い笑顔で写真に収まった。僕もにっかりと笑って、彼女は大人しく微笑んでいた。
 長い式も終わって、言いたいことを言い切った校長先生のご満悦顔に見守られながら体育館から出て行く時、僕の背中に何かが当たった。
「芹沢くん」
 彼女の右手だった。
「放課後、良い?」
 僕はただ頷いた。何も言えなかった。彼女は、授業や作業の時しか話をしなかった。こんな風に呼び出されるなんて、想像もしていなかった。
 何だろう。そればかりが頭の中をぐるぐると渦巻いて、先生の長々とした話なんて聞いていなかった。
 クラス全員でさようなら、と言い終えた瞬間、僕は隣を見た。明日から春休みだ、と騒ぐ教室の中で、彼女は微笑んだ。
「ありがとう」
 彼女は言った。
「この一年間、助かったよ。片手がないから何かと不便で」
 そう言う彼女の表情は明るかった。
「芹沢くんが隣でよかった。ありがとう」
「いや、そんな……何もしてないよ」
 僕は正直に言った。
 初めて会った時、僕は彼女に戸惑った。彼女のことを、自分とは違う生き物で、笑うことができないと無意識に思っていた。だから彼女の笑顔に驚いた。
 今だからわかる。彼女は普通の人だ。ただ、片手がないだけ。
 それを約一年前の僕はわかっていなかった。
「ありがとう」
 彼女はもう一度言った。赤い唇が嬉しそうに微笑んだ。
「片手がなくてよかった」
「……え?」
 思いもしない言葉だった。びっくりする僕に、彼女は続けた。
「だって、片手がなかったから芹沢くんと仲良くなれたんだもん。片手だけだと出会いを呼べるんだね」
 文学的な言葉だった。理系の僕はその表現の仕方がかっこよく思えて戸惑った。
「じゃあ……両手がある僕は、出会いは呼べないのかな」
 戸惑った挙げ句そう言ってしまった。言った後、彼女に僕との差を見せつけてしまったことに気付いた。
 彼女には片手がない。僕には両手がある。
 しまったと思った僕に気付かないふりをして、彼女は微笑んでくれた。
「片手でこんなに素敵な出会いをしたんだもん、両手だったら二倍だよ」
 うらやましいな、そう彼女は言った。その声にねたみはなくて、ただのうらやましさしか聞こえなかった。すごいなと思った。純粋に、彼女はすごいと思った。
 こんなにつらい思いをしているのに、言葉の端にさえも暗い感情を乗せないのだ。
「そう、かな」
 僕はようやくそう言った。
「そうだよ」
 彼女は笑った。綺麗な笑顔だった。
 そうだね。僕の両手は君を呼べたんだもの。
 そう言いたかったけど、あいにく僕の口はきざなセリフは通さないようだった。暗い感情をみじんも見せない彼女、本心を格好付けて言えない僕。
 どう見たって両手のある僕より片手しかない彼女の方が上で。じゃあ僕の欠けていない手は何なんだろうと思った。彼女のようになれるなら、僕も片手でいたい。そう思ってしまいそうになるくらい、彼女がうらやましかった。
「……僕は、僕に両手があって良かったと思いたいな」
 今度は正直に言えた。その分、胸は重くなった。
 申し訳なかった。彼女には言ってはいけない言葉のような気がした。
 僕の気持ちに気付いただろうに、相変わらず彼女は知らないふりをして微笑んだ。
「思えるよ。だって、両手があれば誰かをハグできるもん」
「ハグ?」
「片手じゃ中途半端なんだ。それに、落ち込んでいる人の手を包んであげることもできないし、雨の中自分の分の傘しか差せないし。片手は自分のことしかできないけど、両手はね、誰かのために使えるんだよ」
 彼女の明るい声に、僕は黙り込んだ。
 両手は誰かのために使える。けれど。僕は、今まで一度だって誰かのために両手を使ったことがあっただろうか。誰かを抱きしめ、誰かの手を包み込み、誰かに傘を差しかけたことがあっただろうか。
 教室は静かだった。みんな、早く帰って遊びに行くのだろう。教室には僕と彼女だけだった。
 僕は臆病だった。彼女を異物扱いして避けていた。彼女が明るい性格じゃなかったら、きっと僕は一生彼女を異物扱いしていただろう。目を逸らして、腫れ物のように扱って。
 僕は心の中で何度も自分を励ました。そして、彼女の片手を見て、そして、そっと両手を伸ばした――つもりだったけど、僕の両腕は頑固なおじいさんのように、膝の上から全く動かなかった。
「じゃあ、始業式にね」
 彼女はそう言って椅子から立ち上がった。ガタリと椅子が鳴った。
「また同じクラスだと良いね」
 そう言った彼女に、僕はただこくこくと頷いた。彼女は一度礼をした後、くるりと振り返って教室を出て行った。
 一人ぼっちの教室で、僕はしばらく自分の両手を見つめて、彼女の片手を包んであげられなかったことにがっかりしていた。

***

 彼女と僕が同じクラスになることはなかった。というか、顔を合わせることすらできなかった。僕が引っ越したからだ。唐突に決まった引っ越しのおかげで、僕は隣の県の学校に行くことになった。彼女に挨拶はできなかった。連絡先も交換していない。
 何年か経って、僕はまあまあ頭の良い大学に入学した。大学生活は楽しかった。ボランティアに参加して、両手を使っていろんなことをした。僕なりに両手でできることをしている。
 でも、彼女はここにいなかった。いつからか彼女がいない日々を憂う僕がいた。
 そんな僕のもとに、成人式後の同窓会の手紙が来ている。彼女に会えるだろうか。そう思うだけでわくわくしてしまう僕には、修正液使用不可の手書きレポート三十枚という宿題が残っている。正直嫌だ。でも、黙々と勉強していた彼女の片手を思い出せば、僕の両手が負けるわけにはいかなかった。
 そう思ってからもう一週間は経つ。僕はどうやら、彼女に敵いそうにない。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei