短編集
9. 夏のぬくもり (1/1)
「あったかいね」
隣の席でそう言って笑った彼女の顔を、僕は凝視せずにはいられなかった。
「……は?」
「だから、あったかいねって」
「いやいやいやいや」
何を言うんだこの人は。そう思いながら、首から下げたタオルで鼻の頭に浮かぶ汗を拭う。そして腕時計に目をやった。
講義室のほとんどの席は埋まりつつあって、座った人達は楽しげに談笑している。もう数分すれば教授が来て、あのつまらなくて眠い授業が始まるのだ。
窓際で窓を全開にしているのに、入ってくるのは風ではなく、蝉の声。空気の流れのない中漂う誰かの汗の臭い。じわり、とまた鼻の頭がくすぐったくなる。ああ、またこの季節だ。今年もあせもで夜の寝付きが悪くなるのだろう。
そんな風に思いつつ汗を拭う奴の隣で、彼女はあったかいと言ったのだ。
「……何があったかいって?」
呆れ顔の僕に、彼女はにこにこと返事をしてくれた。
「ここが」
「ここって?」
「この教室が」
「……ごめん、理解には努めたんだ、努めはした。うん。だから許してください」
全く理解できません。
両手を上げて降参のポーズをした僕に、彼女はこてんと首を傾げた。
「人が集まるとあったかいなあって」
「……暑い、じゃなくて?」
「あったかい。なんかね、ストーブとは違う熱なの。ほわっとして、安心するんだ」
「へえ……」
「あ、そう」
ぼん、と両手の平を合わせる。
「温室。温室みたいな」
「温室?」
それはあの、野菜などの旬をずらすためのビニール小屋のことだろうか。
「うん。温室。大切に守ってくれて、その中はぬくもりがあって、寒さを忘れられる、そんな感じ。みんなが集まると、そういうあったかさが集まって、ほわってするの。安心するんだ」
「へえ……」
返事に困った僕に、ふふっと彼女は声をもらした。
「ずっとそばにいたくなる、そんなぬくもり、私、好きなんだ。冬でも、夏でも」
そういって彼女はふにゃりと笑いかけてくる。
「そう――特に、君が隣にいると、もっとほんわり安心できるんだよ。君は温室みたいだね」
ざわめきが絶えない教室の中で、彼女の声はすっと耳に届いた。
教授が教室に入ってくる。途端、教室の中のざわめきは音を変えて、こそこそとしたものになる。彼女もまた、口を閉じ、何事もなかったかのように前を向いた。
僕も前を向いた。それでも、横に目が行ってしまう。
彼女の横顔にはすでに先程までの笑顔はなく、授業へと集中を高めている。対して僕は、彼女から目が離せない。
彼女のあのふにゃりとした笑顔が、忘れがたくて。
「温室……」
訓読みすれば、アタタカイヘヤ。彼女はこの、むさ苦しい教室をアタタカイヘヤと言った。
僕にとって、この教室はアタタカイヘヤではない。でも。
彼女がこちらの視線に気付く。ふわりと微笑んでくれた。すぐに前を向き直ってしまったけれど、その一瞬が嬉しくて。
ほんわりとあたたかいものに包まれる。そう――温室の中にいるかのような。
教授がマイクを持って話し出す。授業が始まるらしい。すぐに静まった教室で、僕もまた、前を向く。
隣にいるアタタカイヒトの存在を感じながら。
2014年07月15日作成
文藝屋「翆」さんのお題「温室」。夏に温室かあと思ってこういう風にした気がする。あたたかいって気温だけじゃないよねっていう。こういう、ほわほわした子が物事の本質を捉えることを比喩で話すっていうのけっこう好きだったりします。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei