短編集 -風鈴荘
2. 雨の日にお客さんがやってきました (1/3)


 生徒がごったがえす正面玄関で、大きくため息をついた。
「雨か……」
 どんよりとした空から何万もの雫が落ちてきている。傘を広げて帰って行く生徒の色とりどりの傘に落ちては、ボタボタと音を立てた。アスファルトのくぼみには雨水がたまっている。 屋根からはほぼ定期的に大きめの雫が落ちてきていて、たまに雨宿りしている生徒に降りかかった。
 辺りは雨が何かしらに衝突している音でいっぱいだった。誰もが、雨に負けない声で話している。要は騒がしかった。
 今もまた、生徒の間から一人、鞄を頭の上に持って走り出していく。彼は明日、風邪をひかなければいいのだが。
「リオってば!」
 そろそろ気付けとばかりに耳元で名前を呼ばれる。振り返れば、咲が不満げに頬をふくらませていた。
「気付くの遅い!」
「いや、だってこんなにうるさいから、全然聞こえなかった」
「もっと大きな声で耳元で叫んであげる」
「ごめんなさい用件は何でしょうか咲様」
 まだ不満げだが、咲はよく通る声で用件を言ってくれた。
「帰ろ」
「……え」
「帰ろうよ、一緒に」
「……一緒に?」
 驚いた。単純に、驚いた。感情を隠さないまま咲を見れば、不思議そうな顔をされた。
「……どうしたの?」
「え、いや、その……」
 今日は職員会議でどこの部活もない。だから、誰もが遊ぶ約束をしていた。咲も当然、誰かと――彼氏と、遊ぶ約束をしていると思っていた。
「もう、早く行こうよ、リオ」
 黙りこんだ相手にしびれを切らし、咲は傘を手にした。そして、あ、と呟く。
「リオ、傘忘れたでしょ」
「……そうだけど」
「天気予報見てないの? 今日七十パーセントだったよ」
「昨日一昨日の天気予報を見たら、今日は大丈夫だろうって思うよ、普通」
 一昨日は降水確率ゼロパーセントを、昨日は七十パーセントを裏切った天気予報だ。今日の天気予報では七十パーセント。誰もが今日も晴れると思っていたし、 実際朝は晴れていた。傘を持っていなくてもおかしくはない。と思う。
「もう、しょうがないなあ」
 咲が鞄を漁り、何かを取り出した。それを渡してくる。
「……折りたたみ?」
「いつも鞄に入れてるんだ」
「普通の傘があるのに折りたたみも持ってきたの?」
 折りたたみの傘があるなら普通の傘はいらないだろうし、普通の傘を持っていくなら折りたたみは置いていけばいいのに。そう言おうと思ったがやめておいた。 触らぬ神になんとやら、だ。
 傘を受け取ると、咲は嬉しそうに笑った。ちょっと見とれてしまう。
 咲が傘を広げて外へ出た。花柄の傘がボタボタと音を立てる。くるりと振り向いて、こちらを見た。傘から落ちる雨水が、彼女の周囲に飛び散る。
「行こ、リオ!」
 これで晴れていたら、もっと絵になっていたんだろうな、と思う。咲は時折、絵みたいな表情を向けてきた。それが眩しくて、思わず目を離してしまうことも多い。
 幼なじみから、水色の折りたたみ傘へ目を移す。綺麗に畳まれているそれを、一瞬躊躇してから開いた。

***

「……で」
 大きくため息をついて、咲を見る。彼女はにっこりと笑った。
「なあに?」
「……帰るんじゃなかったの?」
「この後にねー」
 言い、咲は跳ねるように目の前の屋敷へ入っていった。しかたなく後をついていく。
 初めてここに来てから何週間が過ぎただろう。一ヶ月は過ぎていないはずだ。確か、とても熱い残暑の日だったから。あんな日もあったなあ、と雲に覆われた空を見上げる。
 雨は学校を出てしばらくして、ぱたりと止んだ。傘はだいぶ前にしまっている。ふと見れば、屋敷の庭園の雑草には露が乗っていた。
 この屋敷に来たのは、咲に引きずられて、だ。自分の意志で来たことは、あの日以降も一度もない。いつも咲に引っ張られてここに来ていた。今でも気は進まない。
 屋敷は相変わらずおんぼろで、壁は薄汚れているし、障子は破けている。庭園の池には落ち葉が敷き詰められていて、雨に濡れて沼みたいになっていた。人気は感じられない。 しかし、ここに人が住んでいることを、咲も自分も知っている。
 咲はガラガラと玄関の戸を開けた。真っ暗な中に、ためらいもなく体を入れる。すぐに咲の姿は見えなくなった。後を追う。しばらく真っ直ぐ行く、その間にも明かりは一つもない。 特に物を置いていることもないので、何かにつまずくということもないが、やはり視界を奪われるというのは怖い。足がすくみそうになるし、何度かすくんでいる。
 けれど。
 耳を澄ませる。今日も聞こえてくる音がある。
 チリン。
「風鈴……」
 微かだが、確かに聞こえてくる音。懐かしくて、涼しい音だ。この音が、足のすくみを抑えてくれる。
「リオ、遅いよ!」
 遅れをとったのか、咲の声が遠くから聞こえてくる。慌てて足を動かした。
 やがて奥に扉が見えてきた。木の引き戸だ。張り紙には相変わらず達筆な字が書かれている。咲はその戸をコンコンとノックした。
「こんにちはー」
 声が屋敷に吸い込まれていく。やがて音が聞こえた。戸の向こうから近付いて来る足音だ。
 ギシ、と戸が鳴る。引き戸が開かれた。
「よく来たな」
 戸の向こうで、笑う人がいる。
「こんにちは、お邪魔します」
 咲がその人に頭を下げた。戸の向こうの人が奥へと移動する、咲がその後に続いて引き戸の向こうへと歩いていった。その後を追う。
 引き戸を通った後は、視界は一気に開けた。外からの光が真っ直ぐに入ってくる。毎度のごとく、目を細めた。廊下と部屋には一段あり、そこに黒い塊が置いてある。
「リオウも来たか」
 ふと振り返った屋敷の主人が微笑む。かすむ視界の中、その人はやはり奇妙な格好で、そこにいた。狩衣のような服、栗色の髪、低い身長。古風な言い方をして、 名をメディウムという、しかも子供にしか見えない奇怪なその人に、まあ、と返す。
「咲に連れてこられました」
「だろうとは思った」
「お、リオウじゃん、おひさー」
 黒い塊がくちばしをぱくぱくと動かした。しばらくそれを、見つめ、そして。
「……うおわっ! 痛っ」
 勢い余って尻餅をついた。痛い。廊下はコンクリートで、かなり痛い。涙目になりそうにしていると、黒い塊、もとい黒い鳥がカチカチとくちばしを鳴らした。立ち上がり、 バサッと翼を一振りする。
「何だよ、そんなに驚くことかー?」
「そ、そこにいるならカラスらしくして! びっくりした……ゴミ袋が話したかと思った」
「誰がゴミ袋じゃボケ」
「黒いゴミ袋に見えたんだよ!」
「おれのこの麗しい姿が目に入らんか!」
「入れたら痛いし」
「本当に入れようとするな」
「お邪魔しますね、カラスさん」
 一人と一羽の言い合いを物ともせず、咲がカラスに微笑む。するとカラスは途端に声色を変えた。
「どうぞどうぞ、咲嬢。あなたにまた会えてわたくしめは嬉しい限り」
「ふふっ、ありがとう」
「礼なぞ及ばないさ。あなたはあなたのまま、ここにいてくれればいいのだからな」
「……言うなあ、カラスのくせに」
「カラスだからといって、言ってはいけないセリフは存在しない」
 ふんっと胸を反らして翼の端を体の横(人で言うなら腰)に当てるカラスに、ただため息を返しておいた。



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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei