短編集 -風鈴荘
2. 雨の日にお客さんがやってきました (2/3)
靴を脱いで部屋に上がる。座敷は相変わらず畳のにおいがした。準備された座布団に咲と並んで座る。
「あの、これ」
さっそく咲が鞄から本を取り出した。辞書ほどの厚さのそれを、前に座ったメディウムに差し出す。
「ありがとうございました」
「楽しめたか」
「ええ! とっても!」
咲が生き生きと笑う。その手を覗き込んだ。
「魔術、辞典……?」
「世界中の魔術について詳しく載ってるの。中世とか、それ以前とか。魔女狩りについてのコラムもあって、ああそうそう、日本の江戸時代の奇術師についても書いてあってね」
生き生きとする咲に対して、頭を抱える。気分が優れないのは、ここに来ればいつものことで、しかし慣れるわけもなく。
「オカルト関係以外もある」
メディウムの声が遠くから聞こえた気がした。
「政治、経済、そういったものから、小説も、絵本もある。漢文もあるぞ」
「漢文……?」
のそり、と顔を上げる。メディウムはそばに座ったまま、にこりと笑っていた。
「漢書、史記、三国志もあったか。ほとんど写しだがな」
「……本当にあるんですか」
「見るか? 書庫に大量にあるが」
「是非」
気持ち悪さはどこかに消えた。こぶしを静かに握りしめる。横で咲が首を傾げた。
「リオって小説とか絵本とかは駄目なのに、昔に書かれたお話は好きだよね」
「昔ったってシェイクスピアは全然駄目だよ。あれオカルト感満載だし。漢文は歴史書なら、読んでもあんまり気持ち悪くならなかったんだよね」
「古文は駄目?」
「解読は面白いけど読解はできない」
「めんどくさいなーリオウは」
「言うな」
自分でもわかってる。ただ、どうしようもない。自分でもよくわかっていないのだ。何が駄目で、何が良いのか。
こうなってしまったきっかけは何となくわかるのだけれど。
「……あ」
咲がふと声を上げる。
「どうした?」
咲の視線をたどり、メディウムの後ろ――障子の向こうを見る。
「あ」
外が、どんよりとした雲が地上まで降りてきているような、そんな空気の色になっていた。雨雫が白い線になって落ちてくる。やがて雫の数は増えて、大雨となった。 部屋の中が一気に暗くなる。メディウムが電気をつけた。
「また降ってきたね……」
「降ったり止んだり、乙女の涙のようだな」
カラスがフッと呟く。
「泣いては泣き止み、泣き止んだと思えば泣く……誰かが心の傷に気付いて癒してやらない限り、乙女の儚い心は不安定に泣き続ける。……ま、その王子様の役は おれがお似合いなんだがな」
「ふーん、そうかそうか」
「聞き流している感満載に返すなリオウ」
「聞き流してるんだもん」
「聞き流すな、おれの目映いばかりの美しい言葉たちを」
「はいはい」
「聞き流すな!」
カラスがバサリと翼を広げる。はいはいと返せば今度はくちばしを向けてきた。ぶっすりと手のひらにそれを突き立てる。
「いっ――たああい!」
「お仕置きじゃ覚悟せよリオウ!」
「カラスさん、落ち着いて!」
咲が止めようとするのをかいくぐり、なおもくちばしを突き立ててくる。手を執拗に狙われ、逃げ回ったあげく、制服の上からあちこち刺してきた。
「ちょっと、制服に穴空く、穴空くから! ってだからといって皮膚に直接刺してくるな痛っ!」
「どりるくちばしじゃー!」
「どこから覚えたんだよその言葉!」
「道ばたで」
「盗み聞き?」
「失敬な、学びと言え!」
「ひぎゃあっ!」
「り、リオ! 大丈夫? カラスさんもそろそろ……!」
「見ていなさい姫君、これが男の戦いだ」
「どこがだよ、一方的に攻撃してくるだけじゃん! 痛っ!」
またも手のひらをつつかれた。痛い。これ結構痛い。爪楊枝より痛い。シャープペンシルの先よりも痛い。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ逃げ回っているそばで、メディウムはいつの間にか部屋の隅に避難していた。内側の障子を開ける。そのすぐ奥にガラス張りの戸があった。中庭に面していて、 表の庭園よりもだいぶ手入れされた庭が見える。鹿威しが静かに佇んでいた。
「なるほどな……」
メディウムの呟きは雨と周囲の騒がしさでかき消される。
「心の傷、か……」
そして、部屋の中を振り返った。
「リオウ」
「やっと、この、え、はい?」
カラスの首をようやく掴み暴れるカラスに苦戦しているところで、メディウムに声をかけられる。カラスがばたばたと暴れた。咲が慌てたように肩に触れてきた。 内心どきりとする。
「リオ、リオ! 首締めてる! 離してあげて!」
「え、あ、ああ、ごめん」
ぱっと手を離すと、カラスはどさりと畳の上に落ちた。ぐえと鳴く。
「ぐ、ぐるし……」
「カラスさん大丈夫?」
「あ、案ずるな、おれは、だいじょ……ぐは」
「か、カラスさん!」
力尽きたように倒れたカラスに、咲はわたわたと手を振り回した。そして、困ったように見上げてくる。
「ど、どうしよう……!」
だから、その上目遣い、まじでやめてください。平静でいられなくなるんですが。
「カラスは放っておけ」
咲にアドバイスをしたのはメディウムだった。しかしその内容は意外なもので、咲は呆然とする。その横をすり抜け、部屋を出た。出たところで振り返り、 こちらに視線を合わせてくる。照明に照らされた、青い眼差しだった。
「リオウ」
「……あ、はい」
「来い、客だ」
「はい……え?」
唐突な言葉に動けないのをわかってか無視してか、メディウムはすたすたと奥へ消えてしまった。慌てて追いかける。部屋を出て、靴を履いた。いちいち履かなければいけないのは 面倒だなと思ってしまう。
メディウムは座敷のさらに奥にいた。今まで気付かなかったが、奥にも部屋があるらしく、ふすまが並んでいる。そのうちの一つを開け、メディウムは部屋に上がっていった。
こちらの部屋は、先程までの部屋と大差なかった。ただ一つ違うのは、障子の奥に縁側があることだろうか。
「まだ部屋があったんだ……」
「ここは先程の部屋とは少々異なる」
「まあ、何となくわかりますけど」
「空間自体がな」
「……え?」
メディウムは障子を開けた。その奥の、縁側のガラス戸も開ける。雨音が一気に鼓膜に押し寄せてきた。風がほわりと吹いてくる。それに乗って雨水も入ってきた。顔を腕で覆う。
「ようこそ」
メディウムが言ったのが聞こえた。そっとそちらを見る。
「どうぞ。お待ちしておりました」
縁側の向こうには青々とした庭があった。しかしそれは、この屋敷の中庭とは少し違った雰囲気の、庭師によって整えられたかのような整然とした庭だった。鹿威しがない池のそばに、 誰かが佇んでいる。
髪を長く伸ばしていた。女の人だとわかる、ほっそりとした体の線。長袖のTシャツにロングスカートを着ていた。いまどきの女性、で間違っていないと思う。
女性はメディウムに深々と頭を下げた。髪がさらりと落ちていく。綺麗だった。ただ単純にそう思った。
「あの、突然すみません」
山のわき水のような、透明感を感じさせる声だった。雨に紛れないまま、すっと耳に届いてくる。
「少しだけでいいんですけど」
「どれだけでも、どうぞ。お気の済むままに」
メディウムが微笑む。その言葉に、微笑みに、女性はほっとしたように表情を緩ませた。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei