短編集 -五月の雪
1. 消えない味 (2/3)


「で」
 ひくつく顔を隠すように眼鏡を押し上げる。
「何で僕はここにいるんだよ? 彰人」
「ふへ?」
 ベンチの隣で焼きそばを口いっぱいにほおばりながら、彰人はこちらを見た。そのあほ面は、ため息を禁じ得ない。実際にため息をついて、未だに少し痛む二の腕をさする。
 少し見上げれば風に揺れる提灯が目に入る。少し耳をすませば楽しそうな歓声が聞こえてくる。少し集中すれば、地面を揺るがす子供の足音が響いてくる。
 がんがんに鳴り響く盆踊りの歌。時折聞こえる酒飲みじじいの笑い声。悲鳴なんじゃないかと疑うような甲高い子供の声。
 我慢がならない。
「……うるさい」
「まあまあ、この喧噪を楽しむのが夏祭りの醍醐味っしょ」
「僕はそういうのが嫌いなんだ」
「じゃあなんでここにいるの?」
「それは僕が聞きたい!」
 教室から出て、家に帰って、静かな自分の部屋で勉強を再会するつもりだった。なのに、このお節介が、ひっつくような笑みを浮かべつつ腕を引っ張り引っ張りここへ連れてきたのだ。
「見ろ! 僕の腕にはまだ君の強引な力の行使の痕跡が」
「やーん、カオルチャンいやらしい」
「なんでそうなる!」
 指の形が赤く残る腕をさすりさすり怒鳴る。もう少し手加減をしてくれれば良かったものを。そうしたらとっとと逃げ出して家に帰れていたのに。
「おーい、ビンゴゲームが始まるぞー!」
 ガキ大将のような丸坊主の少年が叫びながら走っていく。あれで舌を噛まないのだから、子供は器用だ。
 丸坊主の少年の後を子供達が走っていく。彼らが向か先にはテントがあって、運営担当らしいおじさんがカードを配っていた。
「薫もや」
「やらない」
「即答かよ。つか最後まで言わせてくれよ」
「断る」
「断られたー」
 底抜けに明るい声で、体を反らせる。膝の上に乗った透明なパックはすでに空だった。焼きそばはもう食べ終わったらしい。
「じゃ、俺はもらってくるわ」
「は?」
 彰人が立ち上がる。ぱんぱんとお尻をはたきつつ、こちらを見下ろした。
「来たからには楽しまないと、な」
「……強引に連れてこられた身としては、全くもって楽しめない」
「そー言っちゃって、実は楽しいくせにー素直じゃないなー」
「んなわけあるか」
 きしし、と笑い、彰人は子供に交じってテントの方へと歩いていった子供達と彰人の身長の差が大きい。そのせいか、彰人が巨人のように見えた。
 ふ、と息を吐いて空を見上げる。いつも薄い青の空は、夕日の色さえも失って、黒へと近付いていっている。
 こうして、今日が終わっていく。そしてまた、明日がやってくる。いつも同じだ。変わらない繰り返し。僕もまた、同じ日々を繰り返している。
 今日だって、きっと、何てことのない一日と同じように、何も残らずに終わっていくのだ。
「おー、空が綺麗だな」
 突然の声にそちらを見る。彰人が空を見上げながら帰ってきていた。顔を上に向けたまま、ベンチに座る。器用だ。
「すっげーな、こう、時間によって色が変わるってのは」
「時間によって変わるんじゃない。光が大気を通過する距離の違いによって変わるんだ」
 上を見上げるのを止め、ずり落ちた眼鏡を押し上げる。
「昼間は、太陽光は地球大気を通過すると大気中の分子とぶつかって光りを四方八方に散らす。これをレイリー散乱というんだけど、これの時、青い光が最も散乱するから、空のあちこちから散乱してきた青色の光が僕達の目に多く入ってくる。だから昼間の空は青く見える。対して夕方は太陽光は地上に対して斜めに入ってくる。この時、昼間より光が大気中を通過する距離は長くなって、つまり光が散乱する距離が長くなる。そうすると青色の光は僕達の目に届く前に散乱しきっちゃって、僕達の目には青以外の光が届くんだ。そうすると、空は赤っぽくな――
「はいはい」
「んんっ!」
 言っている途中の口元に、彰人が何かを突っ込んできた。視界をピンク色の物体が塞ぐ。鼻先にふわりとした、しかしべとついたものが触れた。口の中に甘い何かが入ってきて、しかしすぐに溶けてなくなる。
「こんな時まで難しいこと考えてるなよな、つまんねえだろ、俺が」
「んんんっ……!」
 顔に押しつけられるそれをはがそうと伸ばした手に、細い棒が渡される。それを持って、僕は顔からその物体を離した。ようやく、目の前に輪郭のはっきりしない薄いピンク色のものが認識できる。
「わたあめ……何で」
「我が輩は彰人、わたあめを買ってきた張本人である。理由はまだない」
「まだも何も、これからもないんだろ」
「あ、ばれた?」
 へらりと笑った彰人にじとりと目を向ける。すると彼は妙に楽しげに続けた。
「でも、悪くないな。こう……いつもカタブツな薫がわたあめ持ってるの見ると」
「は?」
「なんか……可愛い」
「気持ち悪い」
「そこ即答しないで!」
 わたあめが触れていた唇を舐める。甘ったるい香りに似合った、甘ったるい味が、ねとり、と口内に広がる。顔をしかめた。
「……わたあめと言うと聞こえは良いけど、これ砂糖だからな。一つにつき十五から二十グラムの砂糖が使われるっていうし。ちなみに一般のジュースには百ミリリットルあたり十グラムくらいは使われていると見た方が良いだろうね。最近WHOが一日の糖類摂取量を二十五グラムと定めたから、わたあめ一つ食べた日は他にジュースを飲むことはできないってこと」
「あーもー、お前な、考えすぎだって」
 呆れたように額に手を当てる。あのな、と呟くように、しかししっかりとした声で明は言った。
「お前、もっと人生楽しめよ。もっといろんなことしろよ。つまんねえだろ、毎日毎日勉強ばっかじゃ。つまんないんだよ」
「……僕の感情を他人の君が断言しないでくれるかな」
「良いだろ、つまんないんだから」
「いや、僕は」
「つまんないんだよ、俺が」
 どこか投げやりに、彼は言った。眉を寄せ、あらぬ方を見る。
「……もっと、楽しそうにしてくれよ」
「良くわからないんだけど」
「わからなくて結構。僕の感情を他人の君が理解しないでくれるかな」
「何それ」
「薫の真似」
「似てない」
「そりゃどうも」
 大袈裟に肩をすくめる彰人に、こちらも肩をすくめたくなる。
 その時、盆踊りの音楽が鳴っていたスピーカーがキィンと高い音を響かせた。
――えー」
 中年のおじさんという風の声がキィンという音の中から聞こえてくる。



←前|[小説一覧に戻る]|次→

Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei